二十七——高歌猛進

二十七——高歌猛進

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信長在屠了荒木村重全家之後順手包圍了本願寺,打算一舉搞死這個噁心了自己十年的對手。

本願寺里的和尚們慌了。在先前被織田軍全面包圍之後,本願寺裡面的糧食就撐不住了。最近幾天甚至已經開始吃人了。天皇由於本願寺是宗教勢力,想給他個台階下,就派遣了個使者到本願寺命令本願寺和織田講和。

本願寺顯如的手下下間賴廉也勸說道:「現在與織田講和,有五利。我等與織田交兵已有十年,因此而死的門徒已逾十萬,若就此休兵,可以使無數生靈免於塗炭,此一利也;寺中諸將,雖於此戰爭之中立下大功,而我並無褒獎其功績之物,若與織田講和,可以暫時休養生息,用和平時獲得的錢糧褒獎諸將,此二利也;信長用兵所向無敵,所擊者破,為其所敗者,皆夷三族,若繼續抗戰,恐明日我等之頭俱不在項上,此三利也;如今陛下降詔,即使信長何等殘暴,見詔書亦無拒絕之理,此四利也;天下英雄雖多,然而如法主般與信長抗戰十年之久者,世間少有,縱使與信長講和,萬民皆知法主並非怯懦,乃時運使然也,法主依舊可將勇名傳於後世,此五利也。」

「胡扯!我即使餓死在本願寺,從外面跳下去,也不會投降信長!那個竹竿!(下間賴廉畫外音:那是天皇陛下的使者)你去告訴信長,我本願寺顯如光佐,自打生下來,還沒有怕過誰!只要我拍一下手,全日本的百萬門徒就會站起來投入反抗信長的洪流之中,讓信長死無葬身之地!我可沒有輸,我絕對不會輸!我可是本願寺顯如光佐,統領全國一向宗門徒的男人啊!我們有槍!有炮!有糧食!有城池!我還能再和信長打上十年!」

「但是我們統治下的人民真的希望戰爭嗎!真的希望將這場註定不會贏的戰爭再打上十年嗎!我們已經撐不住了。大局已定!請法主暫時逃到雜賀眾的領地紀伊,再做打算吧。」

1580年4月9日,本願寺顯如逃往紀伊。在逃亡之前,他本著「我得不到的別人也別想得到」的原則,一把火燒了石山本願寺。持續了十年的戰爭,就此迎來了終結。

幾乎同時,三木城也投降了。

自從織田軍圍了三木城,羽柴秀吉就派人封鎖了糧道,並且堵死了三木城的水源。三木城不久就成了人間地獄,人吃人事件也常常發生。這時,羽柴秀吉送來一封信,說:「與其像波多野和荒木一樣被世人嘲笑,不如切腹拉倒。」

荒木大家都知道,說一說波多野。波多野是明智光秀負責的,他打了一年多,一座城都沒搞下來,於是光秀想了想,找來波多野家的人,表示說要不咱別打了?你看你們肯定遲早被我們打掉,要不你們投降跟我們混?我把我媽放你們那兒,帶你們去見我老大,洽談下投降事宜?

波多野家以前其實是跟著織田家混的,後來當了牆頭草反叛,現在扛不住了,確實又想牆頭草倒回來,於是大名波多野秀治答應了,帶著自己的兄弟秀尚去見信長請罪。

信長看著底下兩人:「光秀,這尼瑪誰啊?」

光秀表示這是波多野的兩兄弟,來投降的。

信長「哦」了一聲:「拖出去砍了。」

光秀急了:主公!我們有人質在他們那兒的!」

信長愣了一下:「誰?」

「我媽!」

於是信長重複了一遍:「拖出去砍了。」接著轉過頭對光秀說:「老子要你去幹掉他們,沒讓你去招降他們,老子不接受他們的投降,只要他們的腦袋。至於你媽,那是你的問題,老子不管。」

秀治和秀尚就被砍了,明智光秀他媽也毫無疑問地被砍了。

這就是威脅了。於是,別所長治決定投降。在看到羽柴家的押糧車後,別所長治切腹自盡。這就是羽柴秀吉的知名戰略,干殺。

本願寺開城之後,明智光秀跑到了安土城,說是有機密事相告,希望信長屏退左右,兩個人密談。

話說密談這種東西本來就是天知地知你知我知的,但是不知道為什麼被人知道了,還被人大大方方的寫到了《佐久間軍記》和《寬政重修諸家譜》里。至於可信度嘛,我TM怎麼知道。

密談內容如下:

明智光秀:「石山本願寺的領土,殿下準備封給誰?」

織田信長:「佐久間信盛。」

「恐怕殿下所託非人。」

「何以見得?」

「佐久間信盛近年來未有寸功,卻不斷憑藉資歷老獲取賞賜。家中諸將對此多有不滿。而此人在三方原大敗而歸、在刀根坂出兵遲緩、攻擊本願寺時也是毫無建樹。難道殿下忘了原田直政的死了嗎?難道殿下忘了大腿上中一槍的恥辱了嗎?難道織田家的賞賜就是用來養這種廢物的?現在佐久間信盛已經領有尾張三河河內和泉大和紀伊六國,如果再把本願寺的領土封給他,倘若殿下撒手人寰,誰能保證佐久間不會突然發難篡奪殿下的家業!」

「那麼光秀,你有何良策?」

「我有上中下三策。下策即為一邊派遣監視役使其不敢妄動,一邊分化佐久間家內部使其內鬥,到時候便可坐收漁翁之利;中策即為在下策的基礎上,以攻擊本願寺不力的罪名,不斷削減佐久間信盛的封地;上策……其名為斬草除根之策……即為……炮製罪名,放逐佐久間信盛,剝奪政治權利終身,沒收個人全部財產!」

信長沉吟許久:「光秀,你先退下吧。」

第二天,信長召集群臣,列出佐久間信盛十九大罪,把他扔到了高野山判處無期徒刑,剝奪政治權利終身,沒收個人全部財產。

高野山也是和比睿山齊名的佛教聖地,但是不是比睿山那種淫穢不堪的地方,因為地處偏遠,那裡都是正兒八經的苦行僧,歷來是日本自我反省關禁閉的最好地方。於是佐久間信盛就去高野山陪野人玩去了。

註:佐久間信盛十九大罪:

「一、そのほうら父子が大坂へ五ヵ年も在陣しながら何らの働きもなきこと、世間が不審に思うのも當然である。その不審は信長としても思い當たるものがある。まったく言葉にも述べがたい。

一、前條の心持ちを推量するに、そのほうは大坂を大敵と考えて攻撃を行わず、かと申して調略?謀計の道にも立ち入らず、ただ居城の構えを堅固にして幾年か送りさえしていれば相手は所詮長袖の身、ゆくゆくは信長の威光の前に退くであろうと考えていたのであろう。

 しかし武者道とはそういうものではあるまい。そのような狀況にあっても勝敗の機を見極めて一戦を遂げることは、そのほうら父子のためにも信長のためにもなることであり、また諸卒も攻囲の労苦から逃れられ誠に本意のかぎりなのである。しかるにそのほうは頑迷に持久の戦を続けるだけであった。まったく分別もなく、未練疑いないことである。

一、丹波國での明智光秀の働きは、天下の面目をほどこした。また羽柴秀吉の數ヶ國にわたる働きも比類のないものである。さらに池田恆興は小身ながら花隈城を程なく陥落させ、天下の評判を取った。そのほうもこれらの例を見習って発心し、一廉の働きを見せてみよ。

一、柴田勝家は前條の面々の働きを聞き及び、一國を領知する身でありながら天下の評を慮り、この春加賀に攻め入って見事一國を平定したものである。

一、武略に自信がなくば人を使って調略を用い、至らぬ點は信長へ報告して意見を聞けば良いものを、この五ヵ年一度もそのようなことを申してこなかった。まったく油斷であり曲事極まりない。

一、保田知宗から先頃送られてきた書狀は、本願寺の一揆勢さえ攻め崩せば殘る小城などは大方退散するであろうとの報告を紙面に載せ、それに対してそのほうら父子が連判するといった內容であった。このような書狀を何の屆けもなく送ってくるというのは、そのほうが自分の苦労を逃れようと周囲を動かし、あれこれと弁明を申し送らせているのではないか。

一、信長の家中において、そのほうの立場は格別であろう。三河に與力がおり、尾張に與力がおり、近江に與力がおり、大和に與力がおり、河內に與力がおり、和泉に與力がおり、さらには根來衆を付屬させたので紀州にも與力がいる。いずれも少祿の者ではあるが、七ヶ國の與力を従えているのである。これに自身の人數を加えて働けば、どのような戦をしようともそうは落度を取るまいに。

一、三河刈屋の水野信元の跡職を與えたので以前より家臣の人數も増えたかと思っていたが、一向にそのようなことはなく逆に水野の舊臣たちを多數追放している。それでも追い出した者たちの跡目を補充しているのならば従前同様となるから良いが、それきり一人も抱えていないのならば、知行地からの蔵納を取り込んで金銀に換えてしまっているのと同じで言語道斷の行いである。

一、山崎の地を任せたところ、當地で信長が目をかけ言葉もかけていた者たちを追い出した。これも前條の三河刈屋での扱いと同様であることは疑いない。

一、譜代の者達に加増をして相応に與力なども付け、新規の奉公人を召し抱えていればこれほどの落度はなかったであろうに、そうはせずに吝嗇がましい蓄えをすることばかりを本意としていたため、今回このように天下の面目を失うこととなってしまった。このことはすでに唐土?高麗?南蠻までも隠れなく知れ渡っている。

一、先年朝倉勢を破った折、そのほうに戦機の見通しが悪いと言ったところ、そのほうは恐縮するどころか逆に身自慢を申して場の雰囲気を壊し、信長の面目を失わせた。その口ほどにもなく長々と大坂に在陣し、その結果がこの程度の働きとは、まったく前代未聞というほかない。

一、甚九郎信栄の不屆きの條々を書き並べれば、筆にも墨にも切りがなく到底述べがたい。

一、大まかに言って、第一に欲が深く、また気難しく、良き者を抱えることをしない。その上油斷の働きが多いと取沙汰されているのだから、つまるところ父子ともに武辺の道を心得ていないのであろう。それゆえこのような事態となったのである。

一、與力ばかりを使い、自分が取次役に任じられた時などは與力の人數で軍役を務め、自分の侍を抱えようとしない。これでは折角の所領を遊ばせているだけであり、曲事というほかない。

一、そのほうの與力や被官に至るまでが信栄に遠慮しているのは他でもない。自身の分別を自慢して取り繕ったふるまいをしながら、実は真綿に針を忍ばせた上を觸れさせるような恐ろしげな扱いをするため、そのような態度を取るのである。

一、信長の代となってから三十年奉公を遂げてきたものの、その間に佐久間右衛門比類なき働き、と呼び鳴らされるような功は一度も挙げていない。

一、信長一世のうちで勝利を失うような事態はこれまでになかったが、先年遠江へ軍勢を遣わした折には苦戦した。勝敗は戦の習いであるからこれは仕方ないが、そうは申しても徳川家康から使者を受けての出兵である。敵に遅れをとりながらも兄弟を討死させ、あるいは家中のしかるべき侍を討死させていたのであれば、自身は時の運によって生き延びられたのだろうと人々も納得したであろうものを、そのほうは手勢を一人も死なせていない。それどころか平手汎秀を見殺しにしておきながら平気な顔をしている。この一事をもってしても、これまでの條々で述べてきたそのほうの分別のなさがはっきりしている。

一、この上はいずこかの敵を平らげ、會稽の恥をそそいでから帰參するか、または討死するほかはない。

一、父子ともに頭を剃り、高野山にでも隠遁してひたすら赦免を乞うのが妥當ではないか。

以上、そのほうらが數年のうちに一廉の働きもなきことや、不屆きの行狀の數々は、このたび保田の例に觸れて思い當たったものである。そもそも天下を治めるこの信長に口答えを申したのはそのほうが最初であるのだから、その勇をもって末の二ヶ條を実行してみせよ。それを受けぬ場合は、二度と赦免はされぬものと心得るべし。

     天正八年八月」

————《信長公記》

陪著佐久間一起當人猿泰山的還有林秀貞、安藤守就、丹羽右近等人,罪名是內通武田,判決書里處罰一欄基本上就是從佐久間信盛的那裡複製粘貼過來的。

織田家在舉行公審大會的時候,毛利家在舉行口水戰。

距離安國寺惠瓊把足利義昭接到毛利家並作出「五年內信長必死」的預言已經七年了,但是信長還是活蹦亂跳的,身體倍棒,吃嘛嘛香。吉川元春坐不住了,指著安國寺惠瓊的鼻子大罵:「你說過五年之內信長必死,但是這都快兩個五年了,信長還什麼事情都沒有。咱們總不能指望著天上掉下來個什麼東西把信長砸死吧?」

「那能怎麼辦?貧僧又不是算命的,手裡也沒有生死簿。」

「還好朝廷並沒有取消將軍的職位,咱們手裡還有攻打信長的大義名分。最近但馬國的鳥取城城主剛剛被殺,他的家臣以此城為見面禮投降毛利。秀吉下一步必定攻打這裡。我提議任命吉川經家守城,只要秀吉有動靜,我們就派兵抵達鳥取城下,在亂軍之中取下羽柴秀吉的人頭!」

羽柴秀吉確實來了。

羽柴秀吉到了地方,圍城轉了一圈,就捅了捅身邊的羽柴秀長:「城裡糧食怎麼賣啊?」

「嗯?」

第二天,城裡出現了一群神秘商人,用兩倍的價格買米。賣米的巴不得有這等好生意,於是敞開了賣。賣得除了戰備糧倉外,城裡的糧倉都沒有糧食了。而且,更倒霉的是,今年大旱,糧食歉收。就在吉川經家抓狂的時候,羽柴秀吉拉了50000人來了。

吉川經家問手下:「城裡還有多少糧食?」

「夠三個月。」

「尼瑪!」

毛利兩川聽說之後拉了人來救援吉川經家。結果在過山谷時中了羽柴軍的埋伏,羽柴軍突然出現在山谷上,往下扔石頭、射箭,援軍潰滅。吉川經家見大勢已去,便向秀吉遞交投降書,以自己和獻城的山名家叛臣切腹自殺為條件,饒其他人一命。

秀吉回信表示,吉川經家不用死,常言道千軍易得一將難求,吉川經家死了反而是一大損失。

吉川經家表示,身為城主讓城裡的將兵餓肚子不是義士所為,所以誰都不要攔著他,他這次死定了。於是,鳥取城開城投降,吉川經家自殺。

1582年正月,一代梟雄,人稱備前謀聖的竊國者宇喜多直家的生命已經接近尾聲。在他的床榻旁邊看護的,是他的兒子宇喜多秀家、他的手下小西行長、他的摯友羽柴秀吉。

「八郎,在我死後,你的親人就只有你的叔叔了……但是你的叔叔是見利忘義之人,可能會害你的性命。我想,讓羽柴大人來照顧你。你要像侍奉父親一樣侍奉羽柴大人……」

「秀吉大人是仁義之人,我願意侍奉他……」

「請直家大人放心,我會視之如己出的。大人的妻子兒女,請交給我照顧。」

「啊……那我就放心了。看來死神在召喚我了……再見了,各位。」

備前謀聖、狡詐的竊國者、前正義的夥伴,宇喜多直家,於居城岡山城去世,享年53歲。

直家:以前,我曾憧憬著成為正義的使者。秀家:曾經? 直家:嗯,很遺憾。從今天開始,這就成為曾經了。直家:英雄是有保質期的。而宇喜多直家這個存在,今後就不會再有了。 直家:這一點……我若能夠早點覺察到就好了。 秀家:原來如此,這樣就沒辦法了啊。 直家:說的沒錯。 直家:真的是……沒有辦法啊。 秀家:嗯,既然沒辦法了。那就由我來代替你吧。 秀家:老爹已經太老了,所以不行了,但是我還是沒問題的。 秀家:老爹的夢想,是用自己的雙手結束這個戰國亂世是吧?秀家:我會替你完成的。 直家:那我就放心了。 備前的謀聖·宇喜多直家緩緩的閉上了眼。 夜空中,掛著一輪明月。 中山信正(回憶):直家,你長大想成為怎樣的大人呢? 直家:我啊,想成為一個正義的使者。

宇喜多直家去世後,秀吉幹了一件足以感動全中國的事情——娶宇喜多直家的遺孀為妻,並且收宇喜多秀家為義子。

幾乎同時,德川家康收到了信長的一封信。信很短,只有一句話:「今天天氣不錯,咱們哥倆送武田家上路吧。」


作者的話

真的沒有想到能夠寫到現在啊……不知不覺,已經到了1582年了。50年的時間,50年的盛衰榮辱,在寫作者的筆下,只有薄薄的幾十頁甚至十幾頁而已,甚至在讀者那裡只有幾個小時甚至幾十分鐘啊……這或許就是歷史的魅力之一吧……

順便祝BGO越辦越好(棒讀)

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