生命消逝之時:來聊聊日本人的埋葬文化

明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的 に多く、火葬は一割程度だったとされる。それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。

一直到明治中期左右,日本人的埋葬方式大部分還是以土葬為主,而火葬只佔一成。而且在京都等已有的大城市和偏真宗地帶,大部分的人都是土葬的。

火葬が急速に普及するのは戦後のことである。これには、都市化の進展が影響したと考えられる。また、都市化に伴い従來の大家族制度が解體し、ミニ家族を単位にした家族墓が普及したことも背景にあると思われる。昭和40年ころには、火葬の普及率は30數パーセントになり、今日では実に99パーセントを超えるほどに進んだ。

火葬快速普及是在戰後,普遍認為是受到城市化進程的影響。另外,伴隨著城市化發展,過去的大家族制度解體,以小家族為單位的家族墓得到了普及也被認為是其背景之一。在昭和40年左右,火葬的普及率達到30%,而現在,實際上正以幾乎超過99%的速度在發展。

それにしても、長い歴史の中で、土葬に慣れ親しんできた民族が、かくも短期間のうちに火葬文化に染まるというのは、ある意味で驚くべきことである。戦後に整備された墓地?埋葬法令が、火葬の普及を助けたという事情があったにせよ、國民の意識のなかにそれを受け入れる土壌がなければ、ありえないことだった。

即使如此,在歷史的長河中,習慣了土葬的民族在短時間內接受了火葬文化,在一定程度上是一件令人吃驚的事情。即使戰後整改墓地?埋葬法令幫助了火葬的普及,但如果國民意識里沒有接受它的話也是不可能的事。

日本人が古來脈々と抱いてきた死生観や霊魂観、その裏側としての遺體に対する感覚が、火葬に対して寛容な風土をもたらしたからだろう。一方、現代の日本人は仏教文化にどっぷりと染まり、その仏教が火葬に寛容だという事情もある。寛容というよりは、遺體そのものに対して、仏教の教義は無頓著なのである。このことが、日本古來の霊魂観と結びついて、遺體に対する民族特有の態度を強化したのではないか。

這大概是因為日本人自古以來代代所持有的生死觀、靈魂觀,及對於在這些觀念背後的遺體的感覺,實際對於火葬是比較寬容的吧。另一方面,也是由於現代的日本人受到佛教文化充分的影響,佛教對火葬是寬容的。與其說是寬容,不如說是佛教的教義對遺體本身是不在乎的。這件事情,難道不是和日本自古以來的靈魂觀相聯繫,強化了民族對於遺體特有的態度么?

かように、日本人は、他の民族と比較すると、死者の遺體に対して、相対的に無頓著 な民族であるといえる。こうした精神的な土壌があって、そこに前述したような功利的な事情が重なった結果、短期間のうちに火葬が爆発的に普及したのではないかと思われるのである。

就好像把日本人和其它民族相比較,對於死者的遺體,可以說是一個相對冷漠的民族。在這樣的精神土壤中,加上上述那樣功利性的事情的作用結果,火葬才在短時間內開始爆發性地普及吧。

そこで、もう一度歴史を遡り、日本人の埋葬文化について鳥瞰しておきたい。

在此,我想再一次追溯歷史,鳥瞰日本人的埋葬文化。

「続和漢名數」という徳川時代初期に書かれた書物によると、日本にもかつては、土葬、火葬、水葬、野葬、林葬の五種があった。

根據德川時代初期所著的《續 和漢名數》一書可知,日本以前有土葬、火葬、水葬、野葬、林葬五種埋葬形式。

野葬は遺體を野に捨て置くもので、曝葬とも風葬ともよばれ、また鳥の啄ばむに任せることから、鳥葬ともよばれた。林葬とは遺體を木の上に置くものである。ともに、遺體を直接置く場合と、棺に納めて置く場合とがあった。このほか、洞窟に遺體をおさめる方法などもあったようである。

野葬是把遺體棄置在野外,又稱曝葬、風葬,還因放任鳥啄而被稱為鳥葬。林葬是把遺體放置在樹上。林藏也分直接在樹上放置遺體和把遺體放在棺材裡再放置的情況。除此之外,好像也有把遺體放入洞穴中等方法。

火葬が日本ではじめてなされたのは、前稿で述べたように、八世紀初頭である。だが、大方は上流の人々の間に行われるにとどまり、一般の民衆にはなかなか広がらなかったようだ。

正如前稿中所說的,日本開始火葬是在八世紀初期。但是,好像大部分是在上流人群中進行的,並沒有遍及到普通民眾。

長らく日本の埋葬文化の中心をなしたのは、土葬である。土葬とは、太古のことはいざ知らず、死者の遺體を棺に収めて、地中に埋葬するものである。

長時間作為日本埋葬文化中心的是土葬。土葬,尚且不談太古時期如何,基本是把死者的遺體放在棺材中,埋入地下的一種埋葬形式。

棺には、大きく分類して二形態あり、ひとつを座棺、ひとつを寢棺といった。寢棺は今日用いられている標準の棺とほぼ同様であるが、座棺は死者を座った姿勢で収めるもので、縦長の桶のような形をしたものが多かった。

棺材分為兩種,一種是座棺,一種是寢棺。寢棺和現在所使用的標準棺材大體一樣,座棺是把死者以坐姿放入棺材,所以多為長桶形。

座棺に納めるにあたっては、死者の身體を強く折り曲げ、膝を両手で抱えてその上に首を垂れるような姿勢をとらせなければならない。死後硬直した死者の身體は、容易には曲がらないから、首といい手足といい、骨はぼきぼき と折れてしまっただろう。それでも頓著しないのは、日本人はキリスト教徒のようには、遺體に執著しないからなのである。

遺體放入座棺時,必須要用力彎曲死者的身體,使其形成雙手抱膝,垂頭的姿勢。由於死者死後身體僵直,不容易彎曲,所以頭、手腳的骨頭都斷裂了。即使如此,日本人也和基督教徒一樣對遺體如何並不在意。

土中の棺は、數年も立つと腐食して崩れるので、その上の土が陥沒して墓に穴が開くことともなる。それを防ぐために、あらかじめ墓穴より一回り大きい石を墓の上に置くこともあった。これが後になって、墓標や墓石に発展していくのである。

由於土中的棺材經過數年時間會被腐蝕、崩裂,上面的土下沉後,墓穴會打開。為了防止這樣的事情發生,也會事先用比墓穴大一圈的石頭放置在墓的上面。之後,就發展成了墓碑和墓石。

沖縄など、西南日本の一部の地域では、洗骨の風習があったとされる。これは、埋葬後數年の後に、死者の遺體を取り出してきれいに洗うというものである。沖縄では、人工の石窟のなかに棺を納める風習があったので、石窟內の衛生を保つために、このようなことがなされるようになったのであろう。

在沖繩等日本西南部的一些地區有洗骨的風俗。這是在埋葬後的數年之後,把死者的遺體取出,進行清洗。在沖繩,因為有把棺材放入人工石窟中的習慣,所以為了保持石窟內的衛生,才漸漸有了這樣的習俗。

次に火葬について。徳川時代には、京、大阪などの大都市において、一般の庶民も火葬をするようになった。江戸においても、小塚原や砂村など數箇所に火葬場が設けられた。當時は、現在のように火葬爐の中で焼くというのではなく、地面に穴を掘った上に薪を積み重ね、その上に棺を置いて、さらに薪を重ね、火にくるんでやくというものであった。火力はたいしたものではなかったろうから、焼けあがるには時間を要したであろう。

接下來是火葬,在德川時代,京都,大阪等大城市中,普通百姓也開始火葬。在江戶,小塚原和砂村等地設置有多個火葬場。當時,並不是像現在一樣在火爐中燒,而是在地面挖個洞穴,在裡面鋪上柴火,把棺材放在上面,再鋪上柴火,點火燃燒。因為火力並不大所以點燃是需要時間的。

骨の収納は、関西や真宗地域においては、すべてを持ち帰るのではなく、のど仏といって、のどのあたりに、仏の姿のような形になって殘った小さな骨を持ち帰るだけだったようである。こんなところにも、死者の遺體にこだわらない日本人の特徴が垣間見える。

在關西和真宗地帶,不會帶走全部屍骨,只把喉嚨佛,也就是喉嚨處遺留下來的像佛形狀的小骨頭帶回去。從這一點也能看出日本人不拘泥於死者遺體的特點。

今日、東京近辺の火葬場の多くは、ロストル 式の火葬爐を採用している。これは、爐の中にパイプでこしらえたロストルという骨組ようのものをあつらえ、その上に、棺を乗せて焼くものである。焼けた骨は、骨組みの隙間をくぐって下にある受け皿のうえに落ちる。

現在,東京附近的很多火葬場都採用的是爐篦子式的火葬爐。在爐子中訂做一個用管子製作的叫作爐篦子的架子,把棺材放進去燃燒。燒過的骨頭,會通過架子的縫隙掉落到下面的托盤中。

一方、関西のほうでは、台車式の爐が好まれるという。これは、がらんどうの爐の中に、棺を乗せた台車をはめ込んで焼くというものである。ロストル式だと、骨が落ちる際に、のど仏が壊れてしまうのに対して、台車式では、骨の形が大きく損なわれずに、のど仏もそのままの形に殘るからであろう。

而據說關西地區喜歡台車式的爐子。在空爐子中,放入載有棺材的台車進行燃燒。爐篦子式的爐子在骨頭掉落的時候容易毀壞喉嚨佛,而台車式的爐子不會大大破壞骨頭形狀,所以喉嚨佛能完好的保留下來。

いづれの方式においても、爐の中の溫度は、700度から900度に保たれる。屈強の成人でも一時間余りで焼きあがり、きれいさっぱり骨ばかりとなるのである。

不管是哪種方式,爐子的溫度要保持在700度到900度。即使是身強力壯的成人也需要一個多小時才能完全火化好。


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