【土曜?短文翻譯】考えあう技術教育と社會を哲學する
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まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社會の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。
首先,讓我們試著來思索一下究竟何為教育。目前,我想把教育定義為:將孩子培育為「合格(即符合社會準則)的社會成員(即成年人)」。
どんな時代、どんな社會の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、社會の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。
無論是哪個時代,處於怎樣的社會,人們都必須把孩子培養成人。這時,我們就要思考合格的社會成員的理想狀態究竟為何物,從而指引教育的發展。
その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に與えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。
評價是否合格的標準大體上分為兩種。一種是自力更生的能力,也就是說,無論是農夫還是漁夫,都該擁有與其身份相對應的技能與知識。另一種是在與人相處時,行為舉止得體——遵守基本規矩、願意與人合作,完成分配到的任務,有責任感等,總的來說就是人際交往能力。
では、現代社會においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。
那麼,在現代社會,怎樣的行為才符合成年人呢?構建教育理念指的正是,將這一問題重新考慮,並與人分享。
だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社會のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社會観·人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。
但是實現共享是不易的。因為在這裡要求我們各自認為社會的理想現狀以及人類的生存方式是怎樣的呢,也就是說各式各樣的社會觀,人生觀會闖進我們的世界並發生衝突。
たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社會の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、反発を覚える人がいるだろう。「それは、社會的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主體的な判斷力を育てるものだ」というわけである。
例如,對於我開篇提出的「將孩子培育為合格的社會成員(即成年人)」這一教育的定義,想必有人持有反對意見吧。他們認為我的觀點主張要求孩子實現社會對其的期待。他們認為教育應是培養孩子的自主判斷能力,認為我的想法不正確。
この意見はしかし、「社會の秩序にただ従うだけでなく、主體的な判斷のもとにみずからの人生をつくりあげ、社會のあり方をも批判的に検討する人間こそが社會の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社會の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主體的·批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。
但是,這個意見是基於這種近代人生觀而形成,即「合格的社會成員不僅要單純地服從社會秩序,還要通過自主判斷來構建屬於自己的人生,批判地審視社會現狀」。不得不說這也是社會對孩子的一種期待。此外,如果對孩子的事情置若罔聞的話,那麼孩子也不可能成為擁有主見,能分辨是非之人,所以必須要按照我開篇寫到的這種方法來培育孩子。
いずれにせよ、教育というものは、社會(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社會の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な條件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という點なのだ。
不論如何,我認為教育就是社會(成年人)一方寄托在孩子身上的期待,更直白地說,那就是一種強制性活動,並不自由。我們要清楚明白「作為社會的一員(即成年人)生存的必備條件是什麼」並與人共享(這一成果),而在此基礎上判斷教育是否為強制性活動,這才是重點。
(苅谷剛彥·西研『考えあう技術――教育と社會を哲學する」による)
辭彙:
さしあたって(差し當って):目前,當前。同 さしあたり。
かつ(且):同義詞 また,並且
あり方:理想狀態,應有的狀態
文法:
とは...ことだ:
忘卻とは忘れ去ることなり。(所謂忘卻就是忘掉了。)
いずれにせよ:不論怎樣,反正,總之。
いずれにせよは、言わないほうがいい。(總之還是不說為好。)
翻譯 何思瑩
校對 奚千金
朗讀 思雨 佳佳
後期 卷卷
責編 孫鵬軒
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