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日語中為什麼會出現「ら抜き言葉」的現象?

「ら抜き言葉」其實是一種不規則的語言現象。在語言的發展中為什麼會有類似於這樣的「錯誤表達」出現呢?今天一起從語法上探究一下它的淵源吧。

この「ら抜き言葉」を説明するには改めて動詞の活用の違いを意識してもらわなければならない。例えば「作る」と「食べる」は活用が異なる動詞だということである。ここで昔習った國文法を思い出していただくと……、「作る」が五段活用動詞(日本語教育では①グループの動詞という)であり、「食べる」は一段活用動詞(②グループの動詞)である。

要解釋「ら抜き言葉」,必須要先認識動詞變形的區別。例如「作る」和「食べる」的變形方法就不同。在這裡,請回想一下過去學過的語法,「作る」是五段活用動詞(在日語教學中,叫1類動詞),「食べる」是一段活用動詞(即2類動詞)。

こんなこと我々日本人にしてみればどうでもいいことなのだが、學習者にしてみれば大いに気になるところである。事実この違いは可能形をつくる場合に特に大事になってくる。「作る」は「作れる」だが、「食べる」は「食べられる」が文法上の規則である。

這對於日本人來說是無所謂的事情,可是日語學習者卻很在意這種區別。事實上,這種區別在變成可能形的時候,會特別重要。「作る」變成了「作れる」,「食べる」變成「食べられる」才符合語法規則。

同じ「きる」でも「切る」は①グループの動詞なので可能形は「切れる」だが、「著る」は②グループなので「著られる」としなくてはならない。しかし大部分の若者は「食べられる」を「食べれる」、「著られる」を「著れる」と「ら抜き言葉」を堂々と使っている。文法的には正しくないと言わざるを得ないのだが……。

同樣讀作「きる」,「切る」是1類動詞,所以可能形是「切れる」,「著る」是2類動詞,可能形必須是「著られる」。但是大部分的年輕人,把「食べられる」讀作「食べれる」、「著られる」讀作「著れる」,在堂堂地使用著「ら抜き言葉」。不得不說,這從語法上來說是錯誤的。

でもこの現象がどんどん増えていく理由として一段活用動詞に文法上の不備があることも事実である。例えば「食べる」の可能文の「納豆が食べられる」と受身文の「貓にさしみを食べられた」そして敬語の「社長はランチを食べられている」のように形がすべて同じであり、もちろん文脈から判斷できるが、単に「食べられる」と言っただけでは意味がはっきりしない。

但是這種現象在逐漸增加,其中一個原因就是,一段活用動詞在語法上是不完善的。例如「食べる」的可能用法「納豆が食べられる」(我能吃納豆),和被動用法「貓にさしみを食べられた」(生魚片被貓吃了),還有敬語「社長はランチを食べられている」(社長在用午飯),像這樣形狀完全相同,當然從前後文也能判斷出來,但只說「食べられる」的時候,含義是不清晰的。

「降りられますか」であるが、この「降りる」という動詞も「食べる」と同じグループの動詞である。バスが止まって、出口の所にお年寄りがいる。降りようとしている若者が「降りられますか」と聲をかけた。するとそのお年寄りは「年寄りをバカにするのか……」と怒ったとのこと。

有「降りられますか」的表達,這個「降りる」和「食べる」一樣,也是2類動詞。巴士停了下來,車門出口處有一位老人。想要下車的年輕人對老人說道,「降りられますか」(您下車嗎)。然後那位老者生氣地說道,「你是看不起我們老年人嗎」。

若者はお年寄りに「降りられますか」と敬語を使ったのだが、そのお年寄りはそれを可能形と思ってしまった。せっかく敬語を使ったのに怒られたのではたまったものではない。こんな場合は他の敬語表現を用いたほうがよさそうである。

年輕人對老年人說「降りられますか」,是使用了敬語的變形,但那位老年人卻把它理解成了可能形。特意使用了敬語卻被罵,真是很冤枉。這種場合使用其他敬語表達方式比較好。

このように「ら抜き言葉」は一段活用動詞の不備も絡んで、若者を中心にかなり高い割合で使われており、もはや間違いだとは言えず、すでに市民権を得ていると言われている。

像這樣「ら抜き言葉」由於一段活用動詞的不完善,以年輕人為中心,佔有很高的使用比例。已經不能稱其為錯誤表達了,因為它已獲得了市民們的認可。


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