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回顧與展望---高木貞治(I)

下面是日本數學先驅者高木貞治1940年的回憶性文章的上半部分。以我自己這點功力而言,只能夠得上N2的水平,因此譯文估計也是破破爛爛,還請知乎的日語達人不吝指正。

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回顧と展望

高木 貞治

回顧與展望

高木貞治

回顧は老人の追想談になるのが普通で、それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります。それは當然不確かになるべきものだと考えられます。遭遇というか閲歴というか、つまり現在の事だって本當には分らない。それは當然主観的である。しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう。そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに変わっていくであるから、まあ大して當てになるものではない。これは一般にそうだろうが、今私の場合は確かにそうなのだから、むしろ始めから、自己中心に、主観的に、過去を回顧すると、明言して置くのが安全であろう。

回顧一般是上年紀的人對過去的追憶,這樣的回憶通常不準確似乎已經成為定論了。我認為[回顧]當然應當是不準確的東西。[靠]遭遇也好,閱歷越好,並不能真正搞明白現在的事情。[所以回顧]當然是主觀的。不過過去[的事情]一旦過去就永遠消失不見。因此說回想[過去的事情]本身主觀上就隨時間的變化而變化,並不是很可靠。這樣的情況很常見,而且我也確實處在這樣的情況之下,因此不如在開頭事先就講明白,[我的演講]以自我[經歷]為中心,[從]主觀[出發],[以]回顧過去[為主],這樣更為穩妥一些。

大學(東京帝國大學)へ私が學生としてきたのは1894年、日清戦爭が起こった明治27年である。西暦のこの數字は、後に引合に出るから、序でに言っておきますが、それから十年後、すなわち1904年の日露戦爭、それからまた十年後の1914年には第一次世界大戦が夫々起こったので、非常に記憶し易い數字であるが、とにかく1894年に田舎から東京へ出てまいった。その頃の數學教室の先生は、菊池大麓先生と藤沢利喜太郎先生の御二人であった。當時何を教わったか、古い記憶を辿ってみると、先ず微分積分それから解析幾何學。これは當然だが、次で二年になると、Duregeの楕円函數論というものをやったものである。これは古い本だから、諸君はしらないだろうが、まあヤコービの楕円函數論を書いたもの、つまりFundamenta Novaの平易な解説といったものである。函數論出來る前の楕円函數論で、隨分時代離れのものだが、多分これは、私の想像なんだけれども、ずっと明治の初期に、ケンブリッジ辺りから、そういうシステムが輸入されたのではないか——と思われる。それから、Salmonの代數曲線論、例の略記法か何かで、我々はそれが射影幾何學であることを知らずに習った訳なのだ。

我的大學(東京帝國大學)生涯是從1894年開始的,也就是明治27年日清戰爭爆發的那一年。公曆的這個數字,因為後面還要提到,就順便先說一下,從這年開始十年後,也就是1904年爆發日俄戰爭,再過十年後也就是1914年爆發第一次世界大戰,這幾個數字很容易記憶。話說回來,我1894年離開家鄉去往東京。那時負責數學教學的兩位先生是菊池大麓先生和藤澤利喜太郎先生。要說當時教的是什麼,追溯一下過去的記憶,是先學微積分後學解析幾何。這是自然而然的事情。第二年學習的是Durege的橢圓函數論(這本書很老了,在座諸位可能不大清楚這本書)、它就是Jacobi寫的橢圓函數論,也就是Fundamenta Nova(橢圓函數理論新基礎)的簡明版。在掌握複變函數論前就學習橢圓函數論,這是與時代相當脫節的事情,不過據我個人的推測,這大概是一直從明治初期由劍橋之類的地方傳入的[教學]系統吧。然後學習的是Salmon的代數曲線論,用其中的縮略符號,我們不知不覺學會了射影幾何學。

まあそんな風に、1894年から98年まで四年間の初めの二年間は過した。しかし、當時は相當學風が自由であって、藤沢先生などは、ドイツ仕込みのLehr-und Lernfreiheitということを鼓吹されて、何でもいいから本は勝手に読め、そんな事を奨勵されていたものだから、いろいろのものを読んだわけである.殊に三年になると、菊池先生が文部省のほうに行って終われたものであるからして、藤沢先生御一人になって、講義の時間が非常に少なくなった。今はそうでもないけれども、一時は隨分沢山詰め込み主義の時代もあった。そういう時代に比べると、大分自由であったと謂える。それで、後の二年間全く自由に暮らして、最後の一年が大學院で、結局四年大學におったが、その間にいろいろな本を読んだのであるが、指導者なしの亂読で、本當に読んだというよりは、図書室にあるだけの本を見境もなく片っ端からひっくり返してみたというほどのことであった。

我就那樣地度過了1894-1898年的頭兩年。不過,當時的學風相當自由,藤澤先生等人也在倡導德國教育所謂的的「教學自由」,[也就是]不管什麼書都可以隨意讀,並且對此有獎勵,所以我自然就讀了許多種類的書。另外,在第三年,由於菊池先生去了文部省,只剩下藤澤先生一人,因此授課的時間大為減少。現在雖然不是那樣,也有過一段充滿大量填鴨式教育的時代。與這樣的時代相比,[那時]可以說是非常自由了。之後兩年完全是自由生活,最後一年在研究生院度過,最終在大學裡呆了四年,在此期間雖說讀了形形色色的書,但是是沒有指導者的泛讀,與所謂真正的讀書相比,不如說是把只有圖書館裡才有的書不加區分地挨個翻了一遍。

それからまあそんな風に言うと、いかにも不完全なようであり、事実不完全に相違ないけれども、藤沢先生はベルリンでクロネッかー(Kronecker)の講義を聴かれたらしいのであって、代數を大學へ入れなくてはならぬということを絶えず言っていられたのであるが、當時日本では、代數は中學校でもう卒業してしまったもののように考えられていた。そこでそのあとセミナリができるてからは、そういう処で頻りに代數の問題を與えられた。當時代數といえばセレー(Serret)の「高等代數」で、それによって、私はアーベル(Abel)方程式を読めと言われ、そこで所謂高等代數の洗禮を受けたわけである。しかし、その當時、既に書棚の隅っこに、ウエーバーの代數學の第1巻が來ていたので、それを探し出して、ガロアの理論に接したのだが、それがほんとに分ったのだかどうだか。その後、段々いろいろ新しいものが來るようになって、ウエーバー第2巻もやがて來た。

下面這樣的說法確實並不完備,但與事實也並不相悖:藤澤先生似乎在柏林聽過Kronecker的課,因此他一直說必須要把代數放到大學課程里之類的話。在當時的日本代數是中學畢業後才會考慮的事情。進研討班後,那裡經常給代數的問題[讓學生做]。要說當時的代數那就是Serret的《高等代數》。就那本書而言,我是被人說「去讀Abel方程吧」,於是從這本書收到了所謂高等代數的洗禮。不過那個時候,Weber的代數學第一卷已經在我書架的一角了,我把它找出來,從那裡接觸了Galois理論,但是我那時是否真明白Galois理論還真是說不好。在那之後,隨著種種新知識漸漸出現, Weber的代數學第二卷不久也出版了。

その中に1898年になって、私はドイツ留學を命ぜられてベルリンへまいることになりました。それは明治31年で、その年に日本最初の政黨內閣(隈板內閣)が出來ることになって、內閣総辭職があったのですが、時の文部大臣の外山正一さんが辭職の際の置土産として、一年分の留學生十餘人を一時に発表されて、私も幸いにその中に加わって、予想外に早く出立することになったのである。

1898年的時候,我受命去德國留學。那一年是明治三十一年,日本最初的政黨內閣(隈板內閣)就在那年組成,雖說[前]內閣成員集體辭職,但是由於當時的文部大臣外山正一辭職時殘留的[政治?]遺產的緣故,一年的十多個留學生的名單短時間內就得以發表,我有幸位列其中,出發比我預想的還早。

「洋行」は嬉しいかったが、その時にベルリンへ行ったならば大変だと怖気をもって行ったのである。それは西洋の學者を神様のように思っている時代であったし、殊にベルリンは、例のワイエルシュトラス(Weierstrass)、クロネッかー(Kronecker)、クンメル(Kummer)の三尊の揃っていた隆盛時代の直後であった。その三尊はみんな亡くなって、後継者のフックス、シュワルツ、フローベニウスの時代になっていたのだが、何分數學といえばドイツ、ドイツといえばベルリンと言われていた時代で、そこへ素養もなく、自信もなく、東洋の田舎者が飛び込んでいくのだから、怖かった。しかしベルリンへ行ってみると、フックスやシュワルツは、既に相當齢をとって日本ならば停年と言われる年頃であった。フックスの微分方程式の講義を聞いたが、それはクレルレ(Crelle)誌66號自分の書いた論文の講義だけども、特異點まで屆くはずの解の収斂円が、黒板の上では其処まで行かないで、立往生というようなこともあった。

出國留學雖說是件高興的事,不過要去柏林學習還是抱著相當不安的心情去的。那個時代西方的學者都被人當做神仙一樣看待,特別是柏林,那時Weierstrass,Kronecker,Kummer三位聚集在一起的黃金年代剛剛過去。他們三位去世後,後繼者是Fuchs,Schwarz和Frobenius。總之在那個時代提到學數學就是去德國,提到去德國就是去柏林。[我自己感覺]既沒有去那裡的素養,也沒有自信,作為一個要闖進[德國]的東方鄉下人,心裡還是害怕的。可是[我到]柏林[的時候],Fuchs和Schwarz年齡都相當大了,在日本來說都應該到退休的年齡了。我聽過Fuchs的微分方程的課,他的課是基於自己發表在Crelle雜誌第66號上的文章的,可是當他[當堂計算]可以拓展到奇點的[微分方程的]解的收斂圓到不了[奇點]這裡的時候就寫不下去了,掛在黑板上進退不得。

シュワルツもいろいろ講義するのであるが、殆ど講義の度毎に、ワイヤストラス先生は、こう言った、ああ言った、Herr Professor Weierstrass pflegte zu sagen 雲々ということが出る。これはワイヤストラスの數學をそのまま、本當の、正真正銘のワイヤストラス直伝の數學を講ずるという建前で、函數論の講義はワイヤストラス流の無理數論から始めるといった遣り方で、これ少々舊い。このような所は、まあ東京でいろいろ読んだのと大して変わりないのであった。

Schwarz開了很多的課,他幾乎每次上課,都會說Weierstrass先生提過這個,Weierstress先生說過那個(Herr Professor Weierstrass pflegte zu sagen)這類的話。課程是以講授原汁原味Weierstrass的數學為目的,從Weierstrass式的無理數論開始講函數論的做法顯得有點老舊。在這樣的地方[學到的],和東京讀到的沒什麼大的不同。

フロベニウスは年も一番若く、講義はガロアの理論や整數論、內容は別段変わったことはないが、講義振りは実にきびきびしたもので、ノートなんか持たない、本當に活きた講義といったものを生れてから初めて聞かされたのである。フロベニウスは少し怖かった、というには訳がある。私がトイツ行く少し前に、ちょうどその頃理學部の少壯教授數人新たに帰朝された。だからドイツへ往くなら、そういう方にいろいろ注意すべきことを訊いてゆくがよかろうというので、いろいろ御話を伺った。すると、「君、フロベニウスのところ行くなら余程注意しなければいかぬ」というのである。それはフロベニウスは學部長かなんかに成ったときに就任演説をやった。その時に、ドイツの科學の進歩を大いに自讃したわけである。それで外國人が頻りドイツへ科學を勉強に來る。アメリカからも來れば、何処からも來る。近頃は日本人すら來る。今に猿も來るだろう——と言ったそうである。まさかそういうことを公開の就任演説で言った訳でもあるまいが、いくら誇張して話されたのであろう。

Frobenius是[三人里]最年輕的,講的是Galois理論和數論,內容並沒什麼特殊的,但是授課確實是乾淨利索,他也不拿講義,這樣生動的課程我有生以來還是頭次聽到。說Frobenius多少有點讓人害怕是有理由的。我在快去德國之前,正好有幾個理學院的的年輕教授回國。因為我要去德國,覺得有很多應當注意的事情應當先去[幾位教授那裡]聽聽,所以聽到了很多事情。那時有人就說,你去Frobenius那裡可要千萬小心。Frobenius在成為系主任的時候做過就職演講。在那個時候,[Frobenius]把德國的科學進步大大自誇一番。因此外國人頻繁來德國學習科學知識。美國人來[德國]學習,其他地方的人也來[德國]學習。最近連日本人都來了,那不久猴子也會來吧——他在演講里這麼說。這樣的話不應當是公開就職演講的內容,應該是[演講內容]被人誇大了吧。

このように日本人を軽蔑するフロベニウスであるから、フロベニウスのところへ行くなら、そのつもりで、よく覚悟をして行くがよかろうと、まあ大に嚇かされたのである。しかし実際行ってみると、そんな怖いこともなかった。私が何かある問題を持って、先生に訊きに行ったことがあったが、そのとき先生は、それは面白い、自分でよく考えなさい、Denken Sie nach!と言っていろいろな別刷などを貸してください。この自分で考えなさいも、思えば入れて初めての教訓であった。當時のフロベニウスは群指標の理論をやっていた最中であったが、そんなことは講義には少しも出ない。セミナリでも、コロキウムでもちっとも出ない。猿に近い日本人ばかりでなく、ドイツの學生でも、つまり相手にしないわけである。そんなものはちゃんと秘蔵というか、學生なんかに公開しない。だからベルリンに居ながら、フロベニウスの群論を知らずに居たのである。

因為Frobenius有過這樣對日本人輕蔑言辭[的緣故],所以有人嚇唬我說如果要去Frobenius那裡的話,還是做足心理準備比較好。不過實際上去見面的時候,並沒感覺那麼可怕。我帶著幾個問題去問他,那個時候他說:「這個很有意思,自己好好想想(Denken Sie nach!)」。他這麼說著又借我許多其他的論文。「自己好好想想」這句話,在我看來是以往沒有聽過的良言。當時Frobenius正在發展群特徵標理論,因此上課不多。研討會和口頭報告也基本不出席。他不僅對日本人,即使德國的學生他也不怎麼理會。[他把群特徵標理論]那樣的東西秘而不宣,不向學生公開。因此即便在柏林,我也不知道Frobenius的群[特徵標]論。

そんな風であったから、ベルリンに三學期もおったけれども、大してこれということもなかった。尤もあの頃は、今と大分時代が間違っていて、文化の食い違いというようなことが余程甚だしかったので、ヨーロッパの生活に慣れるとか、語學の練習とかに時間を費さざるを得なかった次第である。

我就這樣度過了柏林的三個學期,說來也沒有什麼大問題。不過那個時候與現在是相當不同的,文化的差異比現在要大很多,因此適應歐洲生活,練習外語之類的事情也必然會佔用時間。


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