である和だ有什麼區別?


藉此問題作一點小發揮,與諸君分享一下「である」和「だ」的歷史。

首先來看下引文:

斷定の助動詞では、「なり」(「にあり」の転)は上代では名詞に付くだけであったが、平安時代には連體形にも接続し、広く用いられた。鎌倉時代以降、その連用形「に」に接続助詞「て」が付いた「にて」の転「で」が、さらに「ある」と接続した「である」も生じた。この「である」は近世では講義や説教などに用いられるやや固い語であったが、後期になると蘭學などで翻訳文に用いられ、明治中期以降口語文で勢力を増していった。「である」は室町時代に語尾の「る」を脫した「であ」からdea→dyaと変化して「ぢゃ」となり、さらに中央語ではdya→yaとなって西日本方言に「や」を殘す一方、東國方言ではdya→daと変化し、「だ」が近世江戸語で広く用いられ、今日に至る。

(沖森卓也編?陳力衛など著『日本語史概説』?第五章「文法史」)

這邊作一個小小的總結:

1、「である」來源自平安時代的代表性斷定助動詞「なり」。在江戶時代早期,「である」僅限於教學或說教時使用,而江戶時代以降,伴隨著翻譯文學的發展,「である」不斷獲得了更多的登場權,並在明治中期以後的口語文章中大放異彩。

2、「である」的語尾「る」的脫落,使得「であ」發生了dea→dya的變化從而定型為「ぢゃ」。之後,「ぢゃ」再度以地域為單位,在西日本「ぢゃ」dya→ya變形為「や」;而東日本則從dya→da,最終變成了我們今天所常用的「だ」。

另外, @千個蔥蔥 曾經在評論中留下了這樣的疑問:

請問答主,我這兩天正好在查這方面的語源資料,形容動詞在中世出現的「ダ型活用」就是來自である,為什麼である會給形容動詞充當接續呢?難道是因為なり活用和斷定助動詞なり混同了嗎?

在『日本國語大辭典』中又以下的記載,個人覺得似乎與您的提問有關:

現代語の「である」の発生については、(イ)中世の「である」は、中世末期には「だ?ぢ(じ)ゃ」と音転化して多用され、それに従って終止形「である」は、近世初頭に消失したが、(下略)

然後柳夫章在其作『近代日本語の思想―翻訳文體成立事情』中也提到:「である」は、室町時代には「であ」から「だ」になり、さらに「ぢゃ」となった…室町時代の「である」は、話言葉でよく使われた。也即是說,與近世的情況不同, @千個蔥蔥 所問的「である」,在近世之前很有可能就是「だ」在口語中發生的「音便」化現象,文語中ダ型活用的「ダリ?タリ」即口語中的「である」。

不過正如我在評論中回復 @雪見yukimi 的內容一樣,於音韻、語音學我是外行,所以只能從一部分的先行研究中窺得一二,然後作出一個初步的推測。希望知乎上包括 @雪見yukimi 在內對語音比較在行的朋友能夠給與批評和指正。也希望以上的推測能給 @千個蔥蔥 在探尋此問題時提供一個研究路徑。


共同點是都放在句末。基本也差不多。

但dearu的斷定。多用於嚴謹的論證中。比如某篇論文或報告。而且因為可以五段活用,所以用法稍微廣一些。

da我就不用解釋了吧。


簡單來講,這倆意思基本一樣,都是「……是……」的意思,只是だ是簡體,である是書面體。

細微差異的話,である會斷定、強調、證明的語感,通常用於解說什麼是什麼。

而だ只是簡單陳述事實,表現力就不如である那麼強。


今天上課剛講到 我直接上圖吧更新


前面的文章體,後面的是簡體


である 論文體

だ 簡體

我還是更喜歡です。

以上


寫論文的時候會不會被老師勒令改正的區別呀(


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