為啥星蓮船裡面那個曲子叫做『閉ざせし雲の通い路』?
你說「とざす」一個五段動詞,怎麼就被當成了サ変了呢?但是神主已經研究決定了……
這個很正常,就像中國的文豪也寫過「驢不勝怒,蹄之」(其實應該是踶)
「閉ざせし雲の通い路」って、なぜ「閉ざしし雲の通い路」ではないですか?「き」という助動詞は活用する語の連用形に付くので、「閉ざす」という五段?四段活用動詞の...
「閉ざせし雲の通い路」って、なぜ「閉ざしし雲の通い路」ではないですか?n「き」という助動詞は活用する語の連用形に付くので、「閉ざす」という五段?四段活用動詞の連用形「とざし」に付くはずです。 ndaichan44141さんnn2017/7/923:31:23nn過去の助動詞「き」は、通常は用言、助動詞の連用形から接続しますが、カ変動詞、サ変動詞、サ行四段動詞からは、特殊にして複雑な接続をするようですね。nn例文の場合はサ行四段動詞からの接続になりますが、連體形「し」が接続するのはまた別のものになるようです。旺文社古語辭典によれば、今昔物語?六?四一の用例を引いて「我が殺せし所まことなり」が挙げられています。(ただし活用形についてはなんであるか觸れていません。)また、「これは中世以降しばしばみられる形である。」と説明があります。nn一度、古語辭典をご覧になるとよいと思います。
短歌雑記帳|新アララギ
「話しし、話せし」
現実の事件の重い時に今月も微細な現象を取り上げる。こんなこと気にしなくてもと思いつつ、とにかく書いてみる次第だ。 「歌壇」三月號の「アンソロジー94<私の一首>」を読みつつ次の四首に目を止めた。泥濘に落としし硬貨の泥を拭き君に逢わんとダイヤルまわす 上川原紀人
ケースばかりになりて戻りこぬ本いくつ「新風十人」貸ししその人も亡し 大坂 泰路に行き合いわずか話せしのみなるにその言葉がぬくもりとなりて長びく 荻野須美子見殘せしこの世の光を(かげ)を遮ると夫のまぶたを鎖してあげる 伊藤美津世 それぞれの歌の「落としし」「貸しし」「話せし」「見殘せし」という言い方に注意したのだ。もっとも先の二首は、あとの二首と対比するためにあえて取り上げたのである。「落とす」「貸す」「話す」「見殘す」という動詞は、サ行の四段活用。以下あまりに初歩的な説明になるが、回想の助動詞「き」が下に來る時は、その連用形を使って、落としき 貸しき 話しき 見殘しき
となり、名詞などに接続させる場合には「き」の連體形「し」を使って、落としし 貸しし 話しし 見殘ししとなるのが本則である。だから先にあげた四首の「落としし硬貨」「貸ししその人」は、本則に合うが、「話せしのみ」「見殘せしこの世の光」は、それからはずれることになる。つまり正確な言い方ではない。しかし、ここでたまたま二例をあげたが、「話しし」というべきを「話せし」とする如き例は、月々の歌誌にたやすく見つけることができる。「話しし」型と「話せし」型とが、入り亂れているとも言える。これは今に始まったことではない。石川啄木の歌集『一握の砂』を見ると、(三行書きを改める。ルビも適當に省略。)頬(ほ)につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れずが、巻頭の「東海の小島の磯の」の歌の次に出て來る。「示しし」とあり「示せし」ではないから、啄木は自覚的に示したのかと思うと、そのあとの例、
気ぬけして廊下に立ちぬあららかに扉(ドア)を推(お)せしにすぐ開(あ)きしかば何事も思ふことなくいそがしく暮らせし一日(ひとひ)も忘れじと思ふかなしきはかの白玉のごとくなる腕に殘せしキスの痕(あと)かななどは、「推せし」「暮らせし」「殘せし」となっていて、先の「「示しし」」が例外のようにも見える。勿論、一人の作者のなかで揺れることもあり得る。それから言うまでもないが、
己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術(すべ)なし の「涙せし」は「涙す」というサ変の動詞に「し」がついたので「涙せし」でいい。しかしこの「しし」と「せし」が交錯して混亂するのである。 こういう現象は、江戸時代の文章のなかではもう一般的だったようだ。例えば西鶴の『本朝二十不孝』の巻三の目録に「娘盛りの散り桜、吉野に恥をさらせし葛屋」などとあり「さらしし」とせず「さらせし」と書いている。だから鹿持雅澄のような學者も、その『萬葉集古義』のなかで、萬葉集巻二の「みやびをに我はありけり宿貸さず帰しし我ぞみやびをにはある」(一二七)の第四句(原文「令還吾曽」)を、カヘセシアレゾというふうに訓(よ)んでしまった。これは大きな誤りである。 前にも書いたことがあるが、明治時代の新聞雑誌等でまだ文語文が支配的であった時文部省が官報で告示した「文法上許容スベキ事項」のなかに「暮ラシシ時」と言うべきところを「暮ラセシ時」と言っても妨げなしと出ている。しかし現在「話せし」「見殘せし」と表現する作者は、それで妨げなしという自覚のもとにやったものかどうか疑わしい。そんな小さいことは、どうでもいいという考え方もあろうが、私は拘る。ゴウガンの自畫像みればみちのくに山蠶(やまこ)殺ししその日おもほゆ 茂吉 『赤光』やはらかに誰が喫(の)みさしし珈琲ぞ紫の吐息ゆるくのぼれる 白秋『桐の花』 やはり「殺せし」「喫みさせし」ではなく「殺しし」「喫みさしし」と語法に適う言い方のほうが気持がいい。あえて崩れた言い方に従わなくてもいいではないか。 もっとも次のような口語の例もある。用事をすます 人に任す すませる せる待ちあわす 言って聞かす せる せる 普通二つの活用が使われ、下二段の動詞ともなるから、それを文語にして「すましし」か「すませし」か、「任しし」か「任せし」かという問題も出て來て、ややこしい。ちょうど紙數も盡きる。どちらにすべきか。この拙文を読まれる人への宿題としよう。 筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
https://www.zhihu.com/question/34757861/answer/126845653
古人語言學不發達,不能有意識的總結語法規則,只好靠大量閱讀模仿寫作。現代人還停留在那個層次就有點可笑了。絕大多數中學老師和學生都是對著現代漢語去猜,猜不出來被註解,語法也是淺嘗輒止,凌亂不系統。古代人依靠模仿寫的文言文,即使文學大家也會犯一些低級錯誤。舉幾個例子:「驢不勝怒,蹄之」。「蹄」就用的不對,這個「蹄」派生的動詞存在,但正確的寫法是寫作「踶」。再舉一例子「一狼洞其中」,「洞」的意思是穿過。難道說狼從稻草堆里穿過去嗎?這顯然對「洞」的詞義理解不對,是用詞不當。「其一犬坐於前」,犬可以修飾坐嗎?顯然不能。語法上只有地點和時間名詞才可以直接修飾動詞,因此這可能是亂用,或者退一步可以算作轉品這種修辭手法。
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