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如何理解「名詞+なのは」這種句型?

例如下面的句子:

靜かなのはここだ

我的理解是形容動詞連體形「靜かな」+形式體言「の」。

再比如:

私は私なのだ

我的理解是名詞+「なのです」表示強調。

但是對於下面的對話:

「お母さんは教師だったっけ?」

「いいえ、僕の母は教師じゃない。弁護士だ。教師なのは父だ。前にも話しただろう?」

這裡的「なの」似乎不屬於以上兩種情況。「教師」不是形容動詞,在這裡也不屬於名詞+「なのです」的用法,不知是不是我的理解有誤,還是另有其他用法?


名詞和形容動詞的界限瞬間變模糊了呢~

橋本語法大失敗~


「な」…斷定の助動詞「だ」の連體形

「の」…體言代用の格助詞(準體言助詞)

「は」…副助詞(係助詞)

と品詞分解できます。

例 本なのは、男なのは、

「靜かなのは」などの場合の「な」は、

形容動詞連體形の活用語尾です。

(以上摘自「AがBなのは~だからだ。」という文の、「なのは」の文法用法が分か...)

這句話就相當於僕の母は教師ではない、教師であるのは父だ。

不知道這樣解釋有沒有清楚一些?

會對這句感到違和的原因可能是「名詞+だ+のは…だ」這種情況出現的比較少,

如果換成形容詞:「うるさいのは僕じゃなくて君だ」

或者動詞:「肉を食べたのは僕じゃなくて君だ」

或者形容動詞:「殘酷なのは僕じゃなくて君だ」

會不會好一點?

這裡的「教師」是名詞,想接續「のは」的話就必須加「な」,所以就變成教師なのは了~

根據@王小明 的提問,我發現上面最後一句有誤,修改一下~

這裡的「のは」前面要加な的原因,我覺得可以先從は前面接續的成分說起。

は前面必須得接體言(名詞,代名詞),如果前面的成分不是體言,就需要用の、こと、から等助詞來使前面的成分體言化。

而這裡的「教師」已經是體言了,不需要再體言化,所以不能是「教師のは」,除非當中有省略的內容(例:「あなたのカバンはどれか」「私の(カバン)はこれよ」),而從原句的意思來看並沒有省略,故語法上不成立。

「教師は父だ」是可以的(從語法來說)。

如果用のは的話,就要使前面變成「教師だ」這樣一個非體言的句子成分,才能使語法成立。

以上是我個人的理解,希望大家多多指教~


金靜和已經說的很好啦,我再說點詞源好了。

「靜かな」中的「な」其實是文言(文語)中「なる」的省略形式,例如靜かなる男。有的「なる」還不能省略成「な」,例如「大いなる力」(「巨碩之力」?)一般不說成「大いな力」,就像「立黨之本 執政之基 力量之源」一般不說成「立黨的本 執政的基 力量的源」

「なる」的終止形是「なり」。例如あさはかなりとは (アサハカナリとは) [単語記事]。而「なり」正是表斷定的。所以有的語言學家不承認形容動詞的存在。而是把它理解為名詞+表斷定的助動詞。

形容動詞は名詞との境界が曖昧であるという見解により、広辭苑など形容動詞を獨立した品詞と認めずに名詞の一種とみなしている文獻の存在が確認されている。その見解によると、例えば「清廉」「波亂萬丈」などは、古くは「清廉の人」「波亂萬丈の人生」のように(形容動詞と名詞を異なる品詞と考える立場でいう)名詞として使うのが普通であったものの、人?文脈によっては「清廉な人」「波亂萬丈な人生」のように(同じく異なる品詞と考える立場でいう)形容動詞として使う人も多く、揺れがある。

形容動詞

例えば岩波書店は基本的には形容動詞を認めない立場のため『岩波古語辭典』には形容動詞はない。又、『岩波國語辭典』には、巻末に「學者によっては形容動詞を認めないが、本書は通説に従った」として、一般の方々も多く入手する國語辭典に配慮している。

ごきげんようネット


學生なのは僕だけです。之類的確實存在。

但同題主說的大多還是形容動詞。

目測這裡的教師不能算完全的名詞。

教師は父 是不對的。

可能算是教師をしているのは父だ。的縮略形式。


「私は私なのだ」這句不用說了。表示強調。「私は私なんだ」。

學過了一些「の」開頭的語法,我們其實也發現了,基本繼續方式都一樣。「のです」、「ので」、「のに」和現在這個「のは」,繼續方式都是一樣的。所以從這個角度來看,既然「名詞なのです」、「名詞なので」、「名詞なのに」都存在、「名詞なのは」也應該存在。

也許很多人會認為,「名詞の名詞」應該是這種,並且會認為這裡不需要「の」了,直接「教師は父だ」就已經可以了。為什麼非要變成「教師なのは父だ」呢。

其實不難理解。就好比樓主的例句一樣。我引用過來。

A「お母さんは教師だったっけ?」

B「いいえ、僕の母は教師じゃない。弁護士だ。教師なのは父だ。前にも話しただろう?」

再比如:

A「みんな未成年?」

B「いや、未成年なのは俺だけだ。」

和「なのだ」差不多。也是一種強調的感覺。

如果換成「教師であるのは父だ。」「未成年であるのは僕だけだ」似乎就能理解。名詞後面的這個「である」也好「です」也好、「だ」也罷,都是「是」的意思。

同樣,前面的這個「名詞なのは」也同樣是強調的意思。「是教師的是家父」,「是未成年的只是我」有這種感覺。如果變成

A「お母さんは教師ですか。」

B「いいえ、父が教師です。」

什麼感覺?「你媽是老師嗎?」「不,我爸是教師」。語感不太一樣。

其實,「教師」本來不是主題的,本來應該是「母」、「父」是主題的,如今把「教師」變成了主題。於是用了這樣一個方法。


我來猜一猜。

這句話的意思是,我媽不是老師,老師是我爸才對。或者可以翻譯為,我媽不是老師,我爸才是老師。

なの的作用相當於中文的「才」或者「才對」,表示強調。


我先試著翻譯一下。

我的母親不是教師,當教師的是父親(父親是教師)。

這樣來看原句的「教師」就是名詞了,屬於題主的第二種情況。感覺用了なの之後語感上來說多了解釋說明的感覺。


以日本人的邏輯應該說 教師なのは母じゃない、父だ。


我是日語渣,純說自己的理解,題主覺得可以接受的話就可以這麼記。

「教師なのはxx」,可翻譯為「當老師的是xx」。

「當老師的是xx」,「的」後面省略了「人」,也可以說成「當老師的人是xx」。

這裡的の就相當於形式體言,用中文的語法方式來翻的話就變成了「 教師な人はxx 」,當然這樣用很奇怪。。這樣這裡的教師就能當形容動詞看,可以翻譯為「當老師的」。


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