試譯遠藤周作《初戀》
題圖來源見水印,侵刪
遠藤周作(1923—1996),日本最重要的小說家之一,日本信仰文學的先驅。
幼童時隨家人居住在中國的大連,少兒時皈依天主教,青年時期留學法國。他在寫作方面成就斐然,其作品大多思想深刻,充滿對宗教、哲學、民族性、東西方關係的思考。在日本現當代文學史上有著承前啟後的樞紐地位,代表了日本20世紀文學的最高水平。
最初發表的小說集是《白種人(しろいひと)》(1955)與《黃種人(きいろひと)》(1955),指出了他以後大部分作品的方向:將日本與西方的經驗以及想法看法作對照。在《海與毒藥》(1957)之中,藉描述日本醫生以被擊落的美國飛行員作活體解剖的戰爭故事來探討日本式的道德觀。遠滕最具震撼力的小說之一是《沉默》(1966)把到日本旅行又不斷目睹日本信徒殉教的葡萄牙傳教士的記載編成小說。
1995年,被授予日本文化勳章。1996年,病逝於東京。
(以上內容來自百度百科詞條:遠藤周作)
就在去年(2016)12月底,由馬丁·斯科塞斯執導,改編自遠藤周作原作的《沉默》(Silence)在北美上映。值此之際,我恰好讀到了《初戀》這篇遠藤周作描寫關於自己兒時在中國大連居住的回憶的文章,讀罷原作,卻沒能尋找到中譯本,於是便抽空自己試譯,以饗各位。時間倉促,水平不足,當中多有謬誤,懇請指正。
若需轉載請私信聯繫。
(一)
情竇初開,是在小學三年級的時候。雖是四十五年前的事了,但我清楚地記得那女孩的名字叫作早川惠美子。同她不是一個班,倒是同一個年級。
在那之前,我尚不認識她,也別說有注意到這麼一個女孩了。但那天我與她相識,著實讓我吃了一驚。
那天,是文娛會排演伊始的日子。當時三年級的學生們要出演戲劇《青鳥》。班裡有五個人要參演,我作為其中一員,很是得意。從學校飛奔著回家,氣喘吁吁,「我要參演文娛會喲!文娛會!」進了玄關我便開始大喊。
「是嗎,你要參演啦。」
正在練習小提琴的母親有些吃驚。同大我兩歲的哥哥不同,學習和運動兩者我都不擅長,至今為止,我還不曾在文娛會上演出過。
「演個什麼角兒呢?」
「一個麵包。」
「《青鳥》里有這麼個角色呢。有多少台詞?」
母親這麼問,我不知說什麼好,只得沉默。雖然我的確要演一個麵包,但台詞一句都沒有,不過是把寫著「麵包」二字的紙板掛在頭上,站在舞台的一端罷了。
知道了緣由,母親不由得有些同情我,但還是頗有興緻,故意安慰我似地說:「不過,五個人里有你一個,很不錯呢。」
開始排演那天,出演男主角的男孩和出演女主角小滿的早川惠美子,在音樂老師的要求下,一面唱歌一面起舞,而配角們都在一旁仔細地看著。這便是我同她的初識。
我同字面所寫的一樣,像被雷擊中,實在震驚,有些回不過神來,只是痴痴地望著她。九歲之前,我從不知世上有如此可愛,如此美麗的女孩。她愈是唱,我愈是燥熱;她愈是舞,我愈是痴醉。排演結束,全員一同從下學後空蕩的走廊回去,我驀地決定跟著她。
忘了說,我那時住在大連,是中國東北那個種滿了金合歡樹的大連。而我的小學叫作大廣場小學。
穿過學校旁的大廣場,早川惠美子同她的女伴走上了面向鐵道醫院的斜坡。幸運的是,我的家離鐵道醫院很近。在斜坡的最高處她與女伴揮手作別,背著紅色雙肩包飛快地走進了紅磚砌成的房子。「哈哈,她家在這裡。」我暗想,「也不知她是否察覺到了我跟著她。」
回到家,見著讀五年級的哥哥在庭院中獨自玩著球,我便從女傭那裡討了點心,一面吃,一面看他玩。這時母親過來,「小周,替我出趟門吧。我做了些牡丹餅,預備送給鄰里街坊,你替我送給他們,」她說,「包袱皮一定給拿回來!」
沒有辦法,我便抱著套盒出門了。一路走,一路念著早川惠美子。「得想個法子和她套近乎」我想,「然後一起玩。」
到得母親友人家中,將套盒給過去,拿回了包袱皮。然後我將它放在頭頂,再戴上帽子,這樣就萬無一失了。接著又開始心心念念早川惠美子起舞的身姿。
在另一邊的人行道,我遇見了熟識的阿姨。我摘下帽子,向她招呼:「日安!」接著便回了家。
「包袱皮呢?」母親問到。
我往帽子里看去,已不見了蹤影。「啊!」我反應過來,一定是剛才脫帽致意時弄丟了。我急忙跑出去找,卻哪裡也找不到,是誰給拾去了吧。
(二)
去學校令我煩心。在走廊見著她,不知為何我會躲進教室;在校園裡見著她跳繩,不敢靠近,像個傻蛋似的,遠遠地窺視她的身影。因為這原因,在文娛會排演結束後,我還是一如既往地,放學時暗中跟著她,看著她走進家門。
終於,我再不能忍受這煩惱,將我的想法向母親傾訴了。
「小周這孩子」母親很有興緻地將這件事同她的朋友講道,「喜歡上了這次與他一同排演文娛會的一個女孩呢。」
文娛會當日,母親與她那朋友一起來學校看演出。我從老師那裡得到了一塊寫有大大的「麵包」二字的紙板,掛在頭上,在舞台的一隅直愣愣地站著,而早川惠美子,則同演男主角的那個優等生一面唱歌,一面起舞。
應當說,令我傷心的不是沒有和早川惠美子演對手戲。
文娛會結束回到家時,母親正在客廳與同來學校觀看演出的朋友閑聊。見我回來了,母親說道:「哎呀哎呀,你喜歡的那女孩,沒有你說的那麼可愛喲。」母親的朋友也敞懷大笑。
對她們來說,這可能不過是隨性的一句戲言罷了。但我卻實在很受傷,暗忖著不會再同母親講有關她的事了。
我便將她的事告訴了同學橫溝元輔,以及家裡養的一隻名為小黑的狗。橫溝元輔,大家都叫他小元。由於曾留過級,他現在與我一個班,是個溫和的人,但學習上較之於我更不得力。而小黑這隻滿洲犬,尚是幼崽時就養在家裡,一直以來都是我的玩伴。
小元聽了我講,眼神變得空洞,像在看遠處似的,什麼也沒說。他好像無法設身處地理解我的感受。
自從同小元講了這事以後,他也與我一道跟隨早川惠美子。他這樣做,倒不是對我的初戀感興趣,而是因為在學校時我倆總是一起玩耍的緣故吧。
別人總是不太願意同他玩。
早川惠美子與她的女伴一起登上了通往鐵道醫院的斜坡。風拂起了道旁金合歡樹的花,在空中肆意飛舞。她們在日本人街的斜坡的頂點彼此作別。我和小元則在後面的一百米左右,悄悄地跟著。
她們發覺我們的尾隨行為大概就在這個時候。我也明白,因為她和女伴會時不時回頭探看,接著有些不悅地加快了腳步往前走;而她獨自一人時則會飛也似地,身影很快消失在紅磚砌成的房屋中。
我很苦惱,覺著她討厭我,但又心存僥倖,想著也許不是這樣的。看來九歲孩童的初戀與成人的戀愛並無太大不同,同樣是心中煩悶,同樣是無奈哀嘆。
我終於下定決心,要向她講明心聲。
某天,斜坡上空滿是飛舞的金合歡的花瓣。我和小元一齊向她大喊:
「這算什麼!別那麼得意!不就是演了小滿么!」
這便是我表達愛意的話語,與內心完全相反,卻先於我的關懷百米有餘,傳到了前方正在走路的她那裡,阻絕了我的心意。
「這算什麼!」小元學著我,用更大的聲音喊著,「別那麼得意!不就是演了小滿么!」
早川惠美子背著紅色書包開始往前跑。她一定不知道我的真心,而是以為兩個欺負人的孩子為了欺負她才窮追不捨吧。
「這算什麼!這算什麼!」
我自暴自棄地用鞋踢著碎石。
「這算什麼!這算什麼!」
(三)
從那第二天開始,早川惠美子和她的女伴便對我們熟視無睹,也不回頭探看了。我實在難以忍受,於是撿起小石子向她們投去。小元則撿起了更大的石子。
我一點也沒曾有欺負她們的意思,僅是因為她不知道我的心意,哪怕一點。我太過傷心,才做出這種事的。
過了兩三日,酒井老師在下學後叫我們去他那裡。
我和小元站在他的面前。
「你們兩個,用石頭去投女孩子了吧」中年男人厲聲質問,手中拿著一個茶碗,身上則穿著黑色立領的衣服,「已是三年級了,為何做這種荒唐事!」
小元和平日一樣,用沾著鼻涕的上衣袖子擋著臉,開始啜泣。我則低頭不語。
從那時起我便有些叛逆了。說來很慚愧,我曾偷了母親的一個飾品,拿去了附近一個中國人開的雜貨店那裡當錢。為何我會使這種壞呢?至今我也想不通。
從雜貨店的中國人那裡換得五十錢,我和小元就用這錢買了些吃食。
剩下的錢放哪裡才好?我與其他孩子不同,不能自己買零食吃,只有每次買少年雜誌和鉛筆之類的時候,才能從母親那裡拿到錢。若是被母親發現口袋裡有她不知道的錢幣,我是一定會被責問的。
家門口前恰有一株金合歡。哥哥們總是把這樹當作壘包來玩棒球。我便同小元在這褐色的樹下挖了個洞,將錢埋了進去。於是每次下學回家,我倆就一次取出十錢用來買零食吃。這就是我最初違逆母親的行為。「誰叫母親和老師都不能理解我的心情呢」我如是對自己講。而我也再沒跟隨過早川惠美子,但對她的感情是決未消失的。
舉行運動會時,我和小元雖是吊車尾,好歹也扎著頭巾,穿著體操用的黑色燈籠褲,從觀眾席上忿忿地看著出場比賽的她。
右手接過接力棒,如同幼鹿一般矯健,早川惠美子從其他選手中間超過,直奔終點。
她已是我無法觸及的女孩了。正因如此,我狠狠地往地上吐了口唾沫,說:「做得了不起的樣子!」
小元也學著我,同樣說道:「做得了不起的樣子!」
她被其他女孩們包圍著,滿臉激動地回到了觀眾席。我則挖苦班上輸了比賽的女孩:「你一點也不中用。」
也就是那時起,家裡起了變化。父親同母親由某件事而突然變得疏離。父親有時也不再回家了。
之前尚還開朗的母親,總是招待友人來家,現在卻總是一臉陰鬱,不知在想些什麼,很是難過。以前下學回家,在客廳便能聽見的小提琴聲也消失了。家裡充滿了沉默。
不知是否在逃避這困苦,長我兩歲的哥哥總是趴在書桌上學習。我不似他那樣喜愛學習,我也不會把這事告訴小元。我實在不知要向誰訴說,也不知如何敷衍過去。只有養在家中的小黑是我的傾訴對象。
著實不想回到陰暗的家。於是在下學途中與小元作別後,我便儘可能在到家之前磨蹭。或是踢踢碎石,或是在別家圍牆上用粉筆塗鴉,或是呆望著中國人拉車的馬,以此打發時間。
磨蹭到了家門口,在一片暮靄中,小黑躺卧在地。看見我回來,小黑臉上掛著憂鬱,開始搖尾巴。
也只有小黑同我搭話了。
「我真已厭煩了。」
小黑悲鬱地盯著我。
我從包里拿出做手工用的小刀,在門前的金合歡枝幹上刻了幾個字:早川惠美子。
我將自己無盡的憂愁刻進了這個五個字。
年少的我的感受,誰都不曾察覺,誰都不曾明白。
我不僅將自己所無法觸及的女孩的名字刻了上去,更將父母即將離異的孩子的悲傷,以及無法被大人理解的焦躁,這一切的一切,刻了上去。
(四)
轉眼四十五年過去了。那年過後,也就是我上四年級時,母親帶著我和哥哥回到了日本。她決意和父親分居了。
自那以來,在漫長的歲月里,我都不曾遇見在大連的同學和老師,不知小元在那之後過得如何,而同小黑也就那樣在大連分別。戰爭阻隔了我們,彼此音信不通。
五年前,我未料竟收到了大連的小學同學印刷的明信片,上面寫著預備召集同一個小學的畢業生的企案。
聚會在東京的一個大型中國餐廳舉行。我見著了許多不認識的紳士和夫人。其中有好幾個人胸前別著的名牌,喚起了我記憶中他們那稚嫩的面龐。我緊緊地握住他們的手。他們與我無異,都痛切地感受到了戰爭時期和戰後生活的艱辛。
「請問您知道小元——橫溝元輔的消息嗎?」
大家都搖頭表示。
班主任酒井老師很早就去世了。班裡的人說小元並未去讀中學,只知道他後來去了麵包店工作,之後便沒了消息。大概是被征入軍隊,去了哪裡吧。
「那麼」負責聚會的人用麥克風提醒在場的人,「請大家通過幻燈片看看大連最近的照片吧。」
燈熄了,不知誰的影子映在了掛牆的白布上,引得大家一陣笑。昔日的大廣場和小學的校舍、運動場隨即浮現。
「我們就讀的小學,如今變作了旅大市第六中學。」
畫面中,中國學生們正站在校舍和校園裡。他們舉起手,正在上數學課的情景也顯了出來。
「不知道早川惠美子女士是否在這呢,她……」我小聲向以前的一個同學打聽。在這燈熄了的大廳里,我剛把她的名字說出口,臉頰似乎一下有些漲紅。
「早川女士回日本出嫁後便去世了。」
「去世了嗎?」
「據說是在熊本縣。因結核病去世了。」
「這樣啊」我點了點頭。死亡對我這一代人來說並不稀奇。戰爭時期和戰後,都不知有多少熟識的人離我而去。而我已經五十五歲了,這悲傷對我來說就好似從遠處看斜暉籠罩高山一樣,變成了一種眷戀的情愫。
未料今年的春天,受某出版社之託,我和某作家乘上外國輪船去到了闊別四十五年的大連。船隻在大連停泊一日半而已,但托給我的工作是去寫一篇報道,無論如何都沒有理由推辭。
在香港登上了那艘外國船,第三日的早晨即到了昔日的大連港。日中旅行社的人替我們洗了塵,我們二人便坐上了上海牌汽車。
「請問二位想先去哪裡呢?」年輕的中國翻譯問我們。我的作家朋友表示想去看看往日姐姐所住的房子。我則不必多說,當即回復道想探訪自己少年時代居住的家。
汽車從港口駛入了與四十五年別無二致的大連。穿過大廣場,對著從前鐵道醫院所在方向的斜坡,汽車駛了上去。金合歡和周圍紅磚砌的房子都雖都變得老舊了,但一切還是同從前一樣。
我回想起了這裡的路,這裡的轉角,這裡的房子。我的家近在眼前了,有幾個中國小孩在那裡嬉戲。
「我可以在這裡下車嗎?」
「當然,請。」
友人留在車內,我則將攝像機掛在肩上,站在了自己原先的房屋之前。孩子們在近處好奇地打量我。這房子沒有我一直以來所想的那樣大了,圍牆也很矮小。但毋庸置疑,這是我曾住過的家。紅房頂也好,紅磚牆也好,所有的一切我都記起來了。家門口那棵金合歡也已是老態龍鍾。
無論是你還是我,都上年紀了啊。
輕輕摩挲著金合歡的枝幹,我一個人嘟噥著。我和這樹雖然都上了年紀,但它不同於我,這四十五年來一步也不曾移動過。
你在這度過了四十五年光陰啊……
我如此想著,心中猛地一驚,我在這樹上所託載的小學時代的往事便走馬燈似地在眼前不斷划過。有已去世的哥哥們把這樹當作壘包來玩棒球的景象,有小黑抬起一條腿撒尿的姿勢,接著便是有關於的母親的,還有關於早川惠美子的。
為了不讓年輕的翻譯和在一旁註視的中國少年們知道,我用手開始尋找那五個字。
為何字會不見了呢?
摩挲著黝黑且蒼老的枝幹,我卻真切地感受到了那五個字的存在。
原文:
初戀は小學校三年の時である。今から四十五年前の話だが相手の名前もはっきり憶えている。早川エミ子と言って、クラスこそ別だったが、同じ學年だった。
三年生のあの日になるまで、その子を意識したことはなかった。そんな子がいると気づきもしなかった。だが、あの日、私は彼女を知ってびっくりしてしまったのだ。
あの日とは學芸會の最初の稽古の日である。その年、三年生は「青い鳥」をやることになっていた。クラスから五人ほどこの芝居に出るのが決まり、私もなかにいれられて大得意だった。學校から飛ぶように家に走って帰り、息をはずませて、
「學芸會に出るんだぜ。學芸會に。」
玄関をあけるなり大聲をあげた。
「へえ。あなたが。」
ヴァイオリンを稽古していた母が驚いたずねた。二歳上の兄とちがい、私は學業成績も運動神経も悪く、學芸會に選ばれたことなどなかったのだ。
「それはなんの役。」
「パンの役。」
「青い鳥にパンの役あったかしらねえ。言葉はいくつぐらい、しゃべるの。」
途端に私は當惑して黙ってしまった。たしかにパンの役だったが、台詞はまったくなくて、ただ「パン」という二文字を書いたボール紙を首にぶらさげ、舞台の端に立つだけだったのである。
事情を知ると母は情けなさそうな顔をした。しかし、気をとりなし慰めるように、
「でも五人のうちの一人だものね。よかったわね」
と、とって附けように言った。
最初の稽古の日、チルチル役の男の子と、ミチル役の早川エミ子とが音楽の先生に歌を歌わされたり、おどったりするのを端役たちはじっと見學していた。この時はじめて私は彼女の存在を知ったのである。
私は……文字通り雷にうたれたように驚愕し、ひたすら仰天して彼女だけを凝視していた。九歳になるまで、この世にかくも可愛いい、かくも美しい女の子がいると知らなかった。彼女が歌うと私は體が熱くなり、彼女がおどると私は口をポカンとあけていた。稽古がすみ、放課後でがらんとした廊下を一同が帰りはじめると、私は彼女をつけてやろうと急に決心をしたのだった。
言い忘れたが私はその時、大連に住んでいた。中國東北のあのアカシアの大連である。そして私の小學校は大広場小學校と言った。
學校のそばの大広場という広場をぬけ、早川エミ子は女の友だちと鉄道病院にむかう坂道をのぼっていった。幸いなことに私の家もその鉄道病院のすぐ近くにあった。その坂道をのぼりつめた地點で彼女は友だちと手をふって別れ、赤いランドセルの音をたてながら煉瓦づくりの家に走りこんだ。ははあ、ここが彼女の家かと私は思ったがその彼女が尾行に気づいたかどうかは知らない。
家に戻ると五年生の兄が庭でボール遊びを一人でやっていた。お手伝いさんにおやつをもらい、食べながら庭の塀にボールをぶつけている兄を見ていると、母親が姿を見せ、
「周ちゃん、お使いに行ってくれない。」
おはぎを作ったのでその重箱を近所の家まで屆けくれと言う。
「風呂敷を必ず、持って帰るのよ。」
仕方なく重箱をかかえて外に出た。歩きながら早川エミ子のことを考えた。何とかして彼女と接觸し、遊びたいものだと思ったのだ。
母の友人の家に行き、重箱をわたし、風呂敷をもらった。そして、それを頭にのせて學帽をかぶった。こうすれば風呂敷をなくすことはまずないと思ったのである。そしてまた早川エミ子のことを考え、彼女のおどっている姿を心に思い浮かべた。
反対の歩道で知りあいのおばさんに會った。私は「今日は。」と帽子を脫いで挨拶し、そして家に戻った。「風呂敷は?」と母に言われ、帽子のなかを見るとなかった。「あっ。」と気がついた。帽子を脫いで頭をさげた時、落としたのである。エミ子のことをあまり考えていたためにわからなかったのだ。走って探しに行ったが、風呂敷はどこにもみえない。誰かが拾って持っていったのだろう。
學校に行くのが苦しくなった。廊下で彼女を見ると、理由もないのに教室にかくれた。校庭で縄とびをしている彼女の近くまでは寄れず、遠くまで馬鹿のようにその姿をぬすみ見ていた。そのくせ、學芸會の稽古が終わると、相変わらず下校するそのうしろを、とぼとぼと尾行しては、彼女が家に入るのを見屆けるのだった。遂に私はたまらなくなり、自分の気持ちを母にうちあけた。
「周ちゃんが、」母は面白がって自分の友だちにそれをしゃべた。「今度、學芸會で一緒に出る女の子が好きになったんですって。」
學芸會の日、母はその友だちと一緒に學校にやってきた。私は先生から「パン」と大きく書いたボール紙を首にかけさせられ、舞台の隅に棒のように立ち、早川エミ子はチルチル役の優等生の男の子と歌ったり、踴ったりした。
私が傷づけられたのは自分が彼女の相手役になれなかったと言うことではなかった。學芸會が終わって家に戻ると、母が共に見物に行った友だちと応接間で話をしていた。そしてわたしを見ると、
「おや、おや、あなたの好きな子、そんなに可愛いくもなかったわよ。」
と言ったことだった。母の友だちも一緒になって笑いころげた。彼女たちにとってはそれは何でもない軽口だったかもしれない。しかし私の心は甚しく傷つけられた。二度と母にあの子のことを話すまいと思った。
私が彼女のことを打ちあけたのは橫溝元輔という級友と家で飼っている犬のクロとだった。モッちゃんと皆に呼ばれているこの子は一度、落第をして同じクラスに入った溫和しいが私以上に勉強のできない子供だった。クロは満州犬で私の家に仔犬の時から飼われていて、いつも私の遊び相手だった。モッちゃんは私の話をきくと、遠くでも見るような眼つきをして何も答えなかった。彼は私の心情がよく理解できなかったらしい。
モッちゃんに打ちあけてから、早川エミ子を尾行する時、彼が一緒についてきてくれた。彼が私の初戀に興味を持ったためでなく、學校がすむと私たち二人はいつも一緒に遊んでいたからにすぎない。他の子供は彼をあまり相手にしなかったようだ。
鉄道病院までの坂道を早川エミ子が友だちと一緒にのぼっていく。街路樹のアカシアの花が風に吹かれて虛空に舞っている。日本人街のその坂道をのぼりつめると女の子は左右に分かれていく。それを百メートルほどうしろから私とモッちゃんがそっと従いていく。
彼女が私たちの尾行に気づきはじめたのはこの頃のようだ。それは彼女とその友だちが時々、こちらをふりかえり、さも不快げに足を早めたり、一人になると走るようにして赤煉瓦づくりの自分の家に姿を消すことで私にもよくわかった。
自分が嫌われているという予感と、そうでないかもしれないという希望的な観測で私はくるしんだ。九歳の子供の初戀も大人の戀愛とそんなに違いはない。同じような心理に悩み、同じように深い溜息をつくのである。私は遂に決心をした。彼女に聲をあけようと思ったのである。ある日、アカシアの花の舞う坂道でモッちゃんと聲をそろえて叫んだのだった。
「なんだ。偉そうにすな。ミチルの役をやったぐらいで。」それが私の愛の言葉だった。心とはまったく裏腹を百メートル先に歩いてる彼女にかけることで、自分の関心をひこうとしたのである。
「なんだ。」モッちゃんは私の真似をして、もっと大きな聲を出した。
「偉そうにすな。ミチルの役をやったぐらいで。」
早川エミ子は赤い鞄を背でふりながら走りはじめた。私の本當の心を知らず、二人の苛めっ子が自分を苛めるために追いかけていると錯覚したのである。
「なんだ。なんだ。」
私は靴で石を自棄糞になって蹴った。モッちゃんも真似をした。
「なんだ。なんだ。」
その翌日から早川エミ子とその友だちとは私たちをまったく黙殺した。ふり向きもしなっかた。私はたまらなくなり小石をひろって彼女たちに投げた。モッちゃんはもっと大きな石を放った。これっぽちも彼女を苛めようという気持ちは私にはなく、ただただ彼女がこの気持ちを少し理解してくれない悲しみが、そんな行為にさせたのだ。
二三日して酒井先生に放課後よばれた。私とモッちゃんとを前に立たせて、
「お前たち、女の子に石を投げただろう。」
詰襟の黒い服を著た中年の先生は湯呑茶碗を握りながら強い聲を出した。
「三年生にもなって、なぜ、そんなことをする。」
モッちゃんは何時ものことながら、鼻汁のついた洋服の腕を顔にあてて泣きはじめ、私は黙ってうつむいていた。
その頃から少しぐれはじめた。恥ずかしい話だが母の裝身具をひとつ盜んで、それを近所の中國人の雑貨屋に持っていった。どうしてそんな悪知恵が自分にあったのか、今もってわからない。
雑貨屋の中國人は私に五十銭をくれた。その五十銭で菓子を買い、モッちゃんと二人で食べた。
つり銭をどこにかくしてよいのかわからなかった。私は他の子供たちのように買い食いは禁じられていたし、少年雑誌や鉛筆も買う時はそのつど、母から金をもらっていたからポケットに彼女の知らぬ銅貨を入れておけば問いつめられるに決まっていた。
家の前にアカシアの並木の一本があった。兄たちがいつもそのアカシアをベースにして野球をやっていた。私はモッちゃんとその褐色の樹の下を掘り、つり銭を埋めた。そして二人で學校から戻ると、そのなかから十銭をずつ出して買い食いにつかった。この盜みと秘密とは私が母を裏切った最初の行為だった。母や先生が私の気持ちをわかってくれないから、こんなことをするのだと自分に言いきかせた。早川エミ子のあとをつけるのはもうやめた。しかし彼女にたいする気持ちが終わったのでは決してなかった。
運動會の時、私とモッちゃんとはいつもびりっ子だったが、體操用の黒いブルーマーをはいて、赤い鉢巻をしてリレーに出場する彼女を生徒席からから陰険な眼で見送っていた。バトンを右手で受けとり、小鹿のように早川エミ子は他の選手の間を通りぬけていく。それはもう私の手の屆かない女の子だった。手が屆かないから、私は、
「偉そうにしやがって。」
と地面に唾を吐き、モッちゃんも私の真似をして、
「偉そうにしやがって。」
と同じ言葉を言った。そして彼女が他の女の子たちに囲まれて顔を上気させながら戻ってくると、
「お前、駄目じゃないか。」
と負けた私のクラスの女の子に嫌味を言った。
その頃から私の家庭にある変化は起りはじめた。父と母の仲がある事情から急に悪くなって、父は時々、家を留守にするようになったのである。
それまで明るかった、そして友だちを家によく招いていた母が暗い表情で何かを考えこんでいるのは辛かった。今まで學校から戻ると、いつも応接間から聞こえていた彼女のヴァイオリンの稽古の音も消えて、家のなかは沈黙に包まれるようになった。
二つ年上の兄はその辛さを逃げれるためか、いつも機にかじりついて勉強をしていた。兄のように勉強が好きでない私はモッちゃんにもうち明けられぬこの悲しみを誰に伝えてよいのか、どう誤魔化していいのか、わからなかった。そんな時、飼っている犬のクロだけが私の話し相手だった。黒い家に戻りたくなかったから、私は下校の途中でモッちゃんと別れたあとも、時間をできる限りかけて家までたどりつくようにした。小石を蹴り、どこかの家の塀に白墨で落書きし、中國人の馬車引きの馬をじっと眺めて時間をつぶした。
門までたどりつくと、夕暮れのなかにクロが寢そべっている。クロはわたくしをみて哀しそうな表情をして尾をふる。そのクロだけに私は話しかける。
「こんなの、もう、いやだよ。ぼくは。」
クロは哀しそうな眼で私をじっと見つめている。私は鞄のなかから手工用のナイフを出して門の前のアカシアの樹に文字を彫りつける。「早川エミ子」と。
その五つの文字を私は自分の悲しみの深さだけ彫りこんでいった。それは誰にも気づかれない、誰にもわからない少年の私の心情だった。私はそこに自分の手に屆かぬ女の子の名を彫りつけるだけではなく、この五文字のなかに、まさに離婚しようとする両親を待った子供の悲しみ、大人に理解してもらえぬ子供のもどかしさ、それらすべてをこめてナイフを動かしたのだ。
四十五年の歳月が流れた。あの翌年――つまり私が小學校四年生になった、母は兄と私とを連れて日本に戻った。父と別居することが決まったのである。
以來、長い間、大連の級友にも先生にも會わなかったし、モッちゃんのその後もわからなかった。そして犬のクロも大連で別れたままになってしまった。戦爭は我々をたがいに隔て、音信不通にさせてしまった。
それが五年前、思いがけなく大連の小學校の級友から印刷した葉書をもらった。同じ學校の卒業生の集まりをやる企てがそこに書いてあった。
東京の大きな中華レストランで開かれたそのパーティーで、私は見知らぬ中年以上の紳士や婦人にあまた出會った。なかには胸にとめた名前から、その幼な顔の記憶をよび覚まされる人も何人かいた。その人たちとつよく握手をしながら、彼等が私と同じように戦爭や戦後に耐えて生きてきたことをしみじみ感じた。
「モッちゃん――橫溝元輔の消息を知りませんか。」
誰も首をふった。擔任だった酒井先生はとっくに亡くなられ、クラスの者は彼が中學に行かずパン屋で働いてたことまでは知っていたが、その後の消息は不明だった。兵隊にとられ、そして何処かに行ってしまったのだ。
「それでは皆さん。」幹事役の人はマイクで皆によびかけた。「最近の大連の寫真をスライドでお目にかけます。」
電気が消さる、壁にかけた白い布に誰かの影がうつり、笑い聲がおき、昔のままの大広場や小學校の校舎や運動場がうつされた。
「我々の學校は今旅大市第六中學校という名を変っています。」
中國人の生徒がその校舎や校庭に立っていた。手をあげて數學の勉強をしている光景もうつし出しされた。
「早川エミ子さんという女の子がいたでしょう。あの人は……」
私は小聲でむかしの級友の一人にたずねた。その名を口に出した時、電気を消した広間のなかで私は一寸顔を赤くしたようだ。
「早川さんは日本に引きあげて、お嫁に行ってから亡くなられたそうですよ。」
「亡くなったの。」
「なんでも熊本県の田舎で。結核でね。」
そうですか、と私はうなずいた。死は私の世代には珍しいことではなかった。戦爭と戦後の間に私はどれくらい、たくさんの知りあいを失っただろう。私はもう五十五歳になり、あの悲しみも遠くに見える陽のあたる山のように懐かしいものに変っていたのだ。
今年の春、ある出版社に依頼されて、ある作家と思いがけなく四十五年ぶりでその大連に外國船で行くことになった。船が大連に停泊するのはたった一日半だけれども、行ってルポルタージュを書くのが私の頼まれた仕事だった。斷る理由はどこにもなかった。
香港からその外國船にのり、三日目の朝、昔のままの大連港に著いた。日中旅行社の人に迎えられ、私たち二人は「上海」という中國製の車にのった。
「まずどこに行きたいですか。」
若い中國の通訳が私たちにたずねた時、私の友人の作家はむかし彼の姉上が住んでいた家を見たいと答え、私は勿論、自分が少年時代にいた家を訪れたいと即答した。
車は港から四十五年前と何も違わぬ大連に入った。そして大広場をぬけ、むかし鉄道病院があった方向にむかって坂道をのぼった。アカシアの並木も周りの煉瓦づくりの家も古びてはいるが、すべて昔のままだった。
私はおぼえていた。この道もこの曲り角も、この家も。私の家はすぐ目近になり、その前で中國人の子供たちが遊んでいた。
「おりていいですか。」
「どうぞ。どうぞ。」
友人は車に殘り、私はカメラを肩にかけて自分の昔の家の前にたった。子供たちが近くから私を珍しそうに眺めていた。家は私が長い間思っていたほど大きくなかった。塀も小さかった。でもそれは確かも私の住んでいた家だった。赤い屋根も赤煉瓦の塀もすべて記憶があった。そして家の前のアカシアの並木があまりに老いていた。
年とったね。あんたも俺も。
アカシアの幹をいたわるようにさすりながら私はひとりで呟いた。私も年をとり、この樹も年をとったが、この樹は私とちがって四十五年間、この場所から一歩も動かなかったのだ。お前はここで四十五年を過ごしたのか。そう考えた瞬間、胸に小學生時代のこの樹に結びついた思い出が走馬燈のように流れはじめた。死んだ兄たちがこの木をベースにして野球をしていた光景が。犬のクロが片足をあげて放尿していた姿が。そして母が。早川エミ子が。
通訳の青年や、こちらを距離をおいて見つめている中國人の少年たちにわからぬよう、私は幹にあの五つの文字を探した。なぜか文字は消えていた。しかし黒い、老いた幹をさする私の指はたしかにその五文字を感じた……
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