日本历史上有没有过像中国一样的饥荒?
01-16
当然有,在生产力水平低下的古代,任何国家都有可能闹饥荒,战乱,水灾,旱灾,蝗灾这些在当时,大部分政府面对这些灾害都是无能无力的。 日本国内出现的主要饥荒如下
(1)1460–1461,宽禄大饥馑
長禄?寛正の飢饉(ちょうろく?かんしょうのききん)は、長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った飢饉のこと。 長禄3年は全国的な旱魃に加えて、関東地方の享徳の乱、畿内の台風などによって西日本を中心に飢饉が発生、翌年にも大雨による水害と旱魃が交互に訪れ、更に虫害と疫病も加わって飢饉が全国で拡大、畠山氏の家督争い、斯波氏の長禄合戦などによって、両氏の領国では更に事態が深刻化した。京都では長禄3年(1459年)旧暦8月に台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、数え切れないほどの死者が出たほか、飢饉がより深刻化した寛正2年(1461年)には、大量の流民が市中に流れ込み更に事態は悪化した。飢餓と疫病によって、寛正2年の最初の2ヶ月で京都で8万2千人の死者が出たと言われている。だが、室町幕府の将軍足利義政はこの最中に花の御所を改築し、世事に全く関心を示さず、堪りかねた後花園天皇の勧告をも無視した。こうした混乱は、5年後に発生する応仁の乱への下敷きともなった。この飢饉に際して時宗の願阿弥は京都で粟粥などを施し、延暦寺の支配下に置かれて浄土真宗の活動を禁じられていた本願寺では蓮如が救済活動の傍ら延暦寺からの独立を図ってその怒りを招き、いわゆる寛正の法難の原因となった。
(2)江户饥荒,在江户时代总共有154次饥荒,其中21次范围甚广且严重。由于江户时代为气候相当寒冷的时期,时常出现饥荒与歉收。 ①宽永大饥荒(1642~1643),起因为全国的天气异常 (暴雨、洪水、旱魃、霜、虫害),全国特别东日本日本海侧受灾严重;是江户四大饥荒的其中之一。 ②享保大饥荒(1731~1732)为日本江户时代中期发生的饥荒,是江户四大饥荒的其中之一。 破坏:享保16年(1731年)冬天气候开始异常,并持续至隔年。享保17年(1732年)夏天,因为冷夏与害虫而导致西日本中国地方、四国地方、九州地方各地,尤其是瀬戸内海沿岸一带严重歉收。梅雨持续了约60日导致夏天气温过低,蝗虫、小绿叶蝉等害虫大量繁殖造成严重虫害,灾情遍及西日本的46个藩。总石高原为236万石的诸藩,该年只收成了百分之二十七弱的63万石,饿死者超过12,000人(《德川实纪》记载饿死者为969,900人),250万人以上苦于饥饿。③天明饥馑(1783~1787),江户时代中期1782(天明二年)至1788(天明八年)在日本发生的大饥荒。被后世认为是江户四大饥荒之一、日本近代史上最大的饥荒。
破坏:遭受粮荒影响最深的东北地区为中心、全国有数万人死于饥饿(据推断约为2万),杉田玄白在《后见草》中有所记录;同时,各藩藩政基本陷入瘫痪局面,难以对饥荒做出应对,同时对灾害的统计、救援工作相继失败,大量农民变成难民流失。以陆奥弘前藩为例,灾前13万人口(安永九年)在灾后仅存8万(宽政四年)、过半领民流失。与饥荒同时兴起的瘟疫亦于各地流行,从安永九年(1780年)至宽政四年(1792年)的十二年中,日本非正常死亡人数约为89万。 ④天保大饥荒(1833至1839,天保4年—I0年)连年歉收而形成的全国性的严重饥馑,是江户四大饥荒之一。 1829年(文政12年)大丰收,但后两年多冷雨、干旱、虫灾,接连歉收。1838年(巳年)天时不顺,加之冻灾和暴雨,奥羽发生大洪水,关东屡遭暴风雨袭击,当年收成西国仅收三分之一,从中部到东北、北陆或收三份之一,或颗粒无收,出现大荒年,也称“巳年饥馑”。1834年至1835年同样歉收。到1836年全国平均收成只有四成。形成慢性大饥荒,仅东北地方死者即达数十万人。 江户年间另有以下大饥荒:延宝饥荒(1674年 - 1675年),天和饥荒(1782年 - 1783年),宝历饥荒(1753年 - 1757年),元禄饥荒(1691年 - 1695年)推薦閱讀:
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