關於McTaggart對時間的「A系列」邏輯不內洽的問題?
剛剛接觸這個問題。在斯坦福哲學百科的「Time」條目和維基百科的"The unreality of time","McTaggart"條目稍稍瀏覽了一下。三條資料都有比較詳細的描述,但我仍然不理解McTaggart的邏輯。具體有兩個問題:
1:為什麼說B系列一定要依靠A系列才能實現對時間的描述?2:為什麼「一個具體的時間點不可以同時是過去、未來、現在」可以得出"A系列自身矛盾,所以不真實」這一結論?
謝沒人邀。(幾個月之前關注的問題了,問題其實還挺好的,其實我就是閑的蛋疼想答題了)看SEP可能是不太夠的(維基其實參考意義不大),如果是paper的話還是盡量讀一下原文比較好,SEP是幫助你理解原文用的。這裡需要看的是McTaggart 1908年的the unreality of time或者1927年的Time Is Unreal.(我讀的是後者,見reference)
分三段來說:
一:
首先A-series和B-series是在說時間的本質的。
時間的A系列是說「事件(event)」是有三種「位置(position)」或者「性質(property)」的:過去(past),現在(present),將來(future)。這三個位置都是相對於「現在」的關係。不斷有將來的時間點會變成現在,然後變成過去的時間點,然後變成更遠的過去的時間點。
時間B系列則是說事件之前是有三種「關係(relation)」的:早於(earlier than),晚於(later than),同時(simultaneous with)。這些關係是兩個事件之前的關係,並不需要與「現在」這個時間有關。就像一堆人排成一行,B在A的右面,在C的左面,你可以說向左看齊或者向右看齊或者向中間看齊,但是這些基準點都是人為規定的,如果沒有人作規定,在這一行中沒有一個最核心的點。在A系列中,這個最核心的點就是「現在(present)」,而且是客觀的(objective),但是B系列中「現在」這個點則是被認為是因為人或者觀察者的存在才有的,是主觀的(subjective)。
用圖來表示:
然後在解決問題之前先明確一下事件(event)是什麼東西,有什麼樣的特點:
事件就是在某一個時間點(假設有時間的話)發生的一件事。這裡為了簡單明了我用美籍韓裔哲學家Jaegwon Kim的定義:[x, P, t]。x代表對象(object),P代表N階謂詞(n-adic predicate),可以簡單理解為發生在一個對象身上的一件事或者一種狀態的發生,t代表時間(time)。
而我們需要注意的是:事件本身的非關係性性質(non-relational property)是無法發生改變的。不管是發生的對象還是發生了的事情還是發生的時間改變了,都意味著有另一個事件發生了,而不是事件本身改變了。比如說我前天在打字,和我昨天在打字這兩件事,就算我再同一個地方用同一個姿勢打同樣的字,這也是兩件事情,而不是一件事情在不同的時間發生了。
現在解決問題。
二:
題主的第一個問題,Mctaggart是認為B系列要成立的話必須要建立在A系列也必須是對的。
首先部分永恆主義者(eternalist),並且是B系列的支持者(B-theorist)認為「現在」這個時間點是主觀(subjective)的,脫離了人類的認知就不會存在。他們認為過去現在將來同時存在,只不過人類對世界的觀察自帶了一個「現在」的概念(像圖中那樣),而B系列足以說明時間的本質。題主的第一個問題就是McTaggart對這種觀點的反駁。他在Time Is Unreal里是這麼論證的:
首先他認為時間肯定涉及著變化(It would... be universally admitted that time involves change.) (McTaggart 2) 所以說,如果B系列可以脫離A系列來說明時間的本質,它就必須解決變化的問題。但是B系列本身代表了這樣的一種結論:如果事件N早於事件M但是晚於事件O的話,它永遠都早於事件M但是晚於事件O。
在A系列的解釋之中,我現在正在打字這件事是「現在」的,但是在一天前「我現在在打字」這件事是將來會發生的事,而在一天後這件事是過去發生的事。但是B系列並不需要現在的概念,再加上我之前說的事件本身的non-relational property不能變化,也就是說,在B系列中,事件永遠不可能變化。事件N永遠早於事件M,永遠晚於事件O,永遠不會變。這就導致它無法解釋變化。
但是A系列卻可以使事件發生變化:存在一個時間點「現在」,這個點隨著時間永遠在流動,它在流過一個事件之前,這個事件是「未來的」,在恰恰流到了這個事件的時候,這個事件是「現在的」,而在流過這個事件之後,這個事件是「過去的」。這樣的框架便可以使同一個事件的「時間性質(temporal property)」(算是一種relational property)發生改變來解釋變化的問題。
也就是說,McTaggart認為如果有時間的話就必須有變化,而如果要有變化的話A系列就必須成立,所以有時間的話就必須有A系列(記住這個結論,後面會用到)。所以既然B系列認為是有時間的,那B系列就必須認為A系列也成立。
(當然有些形而上學家認為並沒有變化,但是和本題就沒有關係了)
三:
以上回答題主的第一個問題,不過下一個問題確實特別難。是接下來McTaggart開始他的核心觀點了:有時間的話它就必須是A系列,但是A系列不成立,所以時間不存在。
(注意以下所有討論都是在A系列的框架中的)
首先他認為一個事件只能是在「現在」或者「過去」或者「將來」中的一個,不能同時擁有三個性質。一件事不能既是過去的,又是現在的,又是將來的。
但是事實上一個事件在A系列的框架下確實既是「現在」又是「過去」又是「將來」。
1776年美國獨立這件事對於1775年的時間來說是過去,對於成立之時的時間是現在,對於1777年是過去。McTaggart認為這是矛盾的。
他考慮了這樣一種解釋: 「我在打字(他並沒有用這個例子)」這件事現在是現在,將會變成過去,而曾經是未來(It is present, will be past, and has been future. ) (McTaggart 6)。所以說,一件事不能同時,也就是說不能再同一個「現在(present)」的情況下既是過去又是現在又是將來,但是它可以在「不同的現在」中分別是過去現在將來。
首先McTaggart是這麼反駁的:在上面的討論中,我們發現如果有時間的話就必須有變化,而如果要有變化的話A系列就必須成立,所以如果有時間的話A系列就必須成立。但是在上面的解釋中,A系列如果成立的話就必須有時間,因為它又默認了「不同的時間」是存在的。在McTaggart看來這是一種循環定義,用A系列來論證時間的存在,用時間來論證A系列的正確性。
打個比方說,別人問:什麼是蘋果?你說:蘋果是蘋果。這個結論沒有意義。
注意:形而上學是研究事物最最本質的存在問題的,我們不能理所當然的認為時間存在,不能理所當然的認為物體存在,不能理所當然的認為你我存在。問:時間存在嗎?答:因為A系列是正確的,所以時間存在。問:A系列是正確的嗎?答:因為時間存在,所以A系列存在。在這樣的回答中我們還是沒有得出任何結論。
不僅如此,McTaggart提供了一個更複雜的證明。【重點來了】
回到他剛才的論述,他認為事件M既有現在(present)的屬性,又有過去(past)的屬性。但是,一個事件只能有一個時間屬性,要不是過去,要不是現在,要不是未來,不能同時擁有超過一個的時間屬性。(這裡是一階時間(first-order time)。)
有人是這樣解釋的事件M這件事現在是現在,將會變成過去,(It is present and will be past.)。這也就是說,M在現在是現在,過去是未來。也就是說,M有在「現在」這個時間點(時間A)是現在(present-presentness)的屬性和在未來這個時間點(時間B)是過去(future-pastness)的屬性。它又同時擁有了兩種屬性。(這裡是二階時間(second-order time)。)
於是現在就不好解釋了。確實在同一個時間A時,這件事擁有【在現在的時候是現在(present-presentness)】的屬性,同時又擁有【在未來是過去(future-presentness)】的屬性,所以我們現在又得出了三階時間(third-order time)的屬性:在【現在的時候擁有在現在的時候是現在的屬性】(present-present-presentness),以及,【在現在的時候擁有在未來是過去的屬性(present-future-presentness)】。
於是我們可以繼續得出【在未來(時間B)的時候擁有在過去(時間A)的時候擁有在未來是過去】(future-past-future-pastness)的屬性之類的東西。(.....)
這麼下去沒完沒了,McTaggart認為,這樣我們永遠是用新的時間來解釋舊的時間,但是我們不能用時間來解釋時間,就像我們不能用A系列證明時間,用時間證明A系列一樣。我們始終會得出同一個事件擁有兩個以上的時間屬性的結論。A系列無法解釋自身,因此是錯誤的。
當然呢,這一切在B系列的框架中很好解釋,就是一個在前一個在後嘛,但是McTaggart認為B系列必須在A系列的基礎上存在,然後A系列又無法解釋自身。於是就陷入了A系列解釋時間和B系列,B系列解釋時間和A系列,時間解釋A系列的無限循環。
所以說,時間其實是不存在的,事件可能是依照B系列的樣子排序的,但是它並不是時間。
嘛就是這樣。
最後這一大段理解起來會很困難,寫的時候我都快精分了(本來只是無聊才想寫個答案啊摔!)。大家好好加油理解。:) ←(微笑臉)
多讀讀原文。
reference:
http://rintintin.colorado.edu/~vancecd/phil375/McTaggart.pdf
貼個日文的解讀,邏輯很清晰明了,
竟然更易懂「時間は実在するか」(入不二基義 講談社現代新書 2002年)はイギリスの哲學者J?M?E?マクタガートが一九〇八年に書いた論文「時間の非実在性」を解説している。
マクタガートは時間を理解するしかたにはA系列とB系列の二種類があるとする。
そして、時間を考えるうえで本質的なのはA系列の方であるとする。しかし、マクタガートによればA系列はある矛盾を含んでいるので実在してはいないとされる。このことから、マクタガートは「時間は実在しない」と考えた。また、その証明もできたものと考えた。
マクタガートの「証明」には発表當時からさまざまな批判や言及が加えられている(入不二自身もマクタガートの「証明」には批判をもっている)。しかし、マクタガートの説は時間論を考えるうえでは基礎的なものとなっている。
<マクタガートの時間論の大まかな流れ>
マクタガートの時間論の構成をステップ分けすると次のようになる。
ステップ1:時間のとらえ方にはA系列とB系列の二種類がある。
ステップ2:B系列だけでは時間をとらえるのに不十分である。
ステップ3:A系列だけが時間にとって本質的である。
ステップ4:しかしA系列は矛盾を抱えている。
ゴール:よって時間は実在しない。
<時間のA系列とB系列について>
A系列とは、現在を視點として過去?未來を眺めるという視點である。この場合、「現在」はどこかの時點に固定された不動のものではない。
それに対してB系列は、時間的な前後関係や順序関係によって成立する系列である。通常「○○は××より前」「××は○○より後」という表現で表される。この関係は二つ以上の出來事や時點に関してでなければ成り立たない。
そして、マクタガートはB系列だけでは「時間」の核心をとらえることはできない、とする。その理由をマクタガートは、
①「変化」が「時間」にとって本質的なもの
であり、
②B系列だけでは「変化」を説明できない
からだとする。
①の、「変化が時間にとって本質的なものだ」というのは、ものごとの「変化」がなければ時間が経過しないからである。②の結論がでるのは、B系列はあたかも數直線上に數値が「○○は××より大きい」「××は○○より小さい」という順序関係で並んでいるかのように出來事、時點を時間の順序で整列させているからである。その序列関係の系列は、そのままであり続けるしかないのであって、そこに「変化」が入り込む餘地はない。
B系列はこのように固定的?永続的なものであり、「変化」を説明することはできない。
<A系列の優位性>
マクタガートは「変化」を説明できるのはA系列だけであるとする。A系列についてマクタガートは次のように説明する。
ある出來事aは、いつまでも現在であり続けることは不可能である。出來事aは、いずれ過去になる。いいかえれば、aという出來事がまさに現在起こっているという特徴付けは、ある時に「真」であっても、いずれその後「偽」に変わってしまう。このような「過去ー現在ー未來」という特性によって出來事や時點をとらえるとき、その系列はA系列を形成する。たとえば「源義経の死」という歴史的な出來事も、これからおとずれる未來である狀態から、まさに今生じている現在であるという狀態を経て、もうすでに終わった過去であるという狀態へと「変化」する。同一の出來事もB系列として眺めると不変であるのに対して、A系列としてみると「変化」するのがわかる。このようにA系列は時間の本質である「変化」をとらえることができる。マクタガート本人はこのことを「ものごとは時間の中にある限りA系列の中にある」と述べている。
<A系列の矛盾>
さらにマクタガートはB系列はA系列に対してより根本的な時間把握であり、B系列はA系列に対して依存して初めて成り立つと考えている。
マクタガートは、B系列は「順序+時間」という仕方で構成されていると考える。この「時間」の部分がA系列である。マクタガートは「順序」の部分には「C系列」という呼稱をつけた。つまりB系列=C系列+A系列というわけである。
マクタガートは方向性を持たない順序であるC系列こそが実在の姿であり、あとからそこに方向性を持った時間的な変化であるA系列が付け加えられることによって、ようやくふつうの意味での順序のB系列が成立するのだと考えた。
その上でマクタガートはA系列の矛盾を以下のように証明する。
1、出來事は、「過去である」「現在である」「未來である」という三つのA特性をすべて持たなくてはならない。
2、「過去である」「現在である」「未來である」という三つのA特性は「変化」を表すためには互いに排他的でなければならない。
3、A特性が出來事に適用されるならば、その出來事は互いに排他的な三つの特性をすべて持たなければならない。これは矛盾である。
「出來事は両立不可能な三つのA特性をすべて持っていなければならない」という點にマクタガートは矛盾をみる。これは、あるものが「赤色である」「青色である」「黃色である」という三つの特徴をすべて持っていなければならない事態に似ている。この三つの特徴は、A特性と同じように、互いに排他的である。両立不可能な三つの特徴をすべて持っていなければならないとしたら、それは矛盾した事態である。
マクタガートは自論に対して次のような反論を予想する。
両立不可能な特徴であっても「同時に」ではなく「契機的に」別々の「時」に帰屬させられるのであれば、矛盾にはならないのではないか?
これに対してマクタガートは次のように再反論する。継起的に、ということには、B系列的な時間の観念(時間的順序関係)が入り込んでしまっている。しかし、B系列はA系列+C系列でできている。反論者はA系列を矛盾のないものとして証明するために、當のA系列を使ってしまっている。これは、悪循環になるので、間違いである。
よって、A系列は矛盾を含む。矛盾するものは存在し得ないので、A系列は存在し得ない。A系列は時間にとって本質的なものであった。したがって時間は存在し得ない。よって時間は非実在的なものであることが証明された。推薦閱讀:
※最高準則的道德的純粹性?
※能否用「四因說」去分析在亞里士多德之前的各類哲學學說中提及的事物?
※絕對是絕對的嗎?
※當代分析哲學對抽象實體(Abstract Entity)有哪些討論?
※如何理解尼采《悲劇的誕生》中所說的「形而上的慰藉」?