「假」在現代日文中為何簡化為「仮」?
是草書楷化嗎?
這個字原本在古漢語里是「反」的異體字。漢字傳入日本後,因為書寫傳訛,(在日文里)約定俗成了「假」的異體字、俗字。文字改革後扶正。(大辭林:本來「反」の異體字。俗に「假」の略字として使われ、そのまま常用漢字となったもの)
高島俊男氏在「漢字と日本人」(文春新書)的主張: http://hiroaki1959.at.webry.info/201606/article_26.html
……
ただ、通用漢字には問題もある。一般に通用漢字は、手書きする際に「へん」または「つくり」の一部を省略して書いた字を正漢字の替わりに使っているのだが、その所為で不都合が生じているものがある。
高島氏は、上掲書の中で次のように書いている。
[「反」という字形を含む字は、「反」自體のほか、板、坂、版、飯、叛、返などが1グループをなしていて、みなハンという音を持っている。 (中略)
いっぽう「假」のほうは、この「假」をはじめとして、暇、霞、瑕、葭などがグループで、みなカという音を持っている。このなかの「假」だけを「仮」にして、「板」や「坂」や「飯」のグループの一員のような形にすることは甚だ不都合なのです。]上掲書を読むまで、何の疑問も持たずに「仮」の字を使っていたが、言われてみれば確かに変だ。「暇」はそのままで、「假」を「仮」にした明確な理由はないと思われる。ならば、こうした「不都合」な通用漢字はなくして―手書きは問題ない。あくまで印刷された字の場合―正漢字を常用漢字表に載せるべきだろう。
白川靜氏在「常用字解」的主張
http://gaus.livedoor.biz/archives/2016-04-29.html
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意味とは言葉の意味である。文字は言葉を表記する手段であるから、言葉を離れては単なる符號である。そんな形から意味を求めても言葉の意味にはならない。「意味とは言葉の意味である」を前提 にしないと漢字論は成り立たない。
意味→形という軸から見直してみよう。まずk?gという言葉(古典漢語)があった。k?gは家も意味するが、これとは別の意味もあり、假と表記される。次のような文脈で使用される。 原文:心之憂矣 不遑假寐 訓読:心の憂ひ 仮寐するに遑あらず 翻訳:心に結ぶ物思い うたた寢のゆとりすらない――『詩経』小雅?小弁假寐とは一時的に寢る、つまり本式の睡眠ではなく間に合わせの睡眠ということである。「一時的な間に合わせで本當ではない」というのが假の意味である。仮説の仮はこの意味。仮病の仮は「本當のように見せかける、うわべだけで実體がない」という意味。これらに共通するのは「実體を覆い隠して見せない」というイメージである。これが假という言葉のコアイメージである。もっと抽象化すると「覆いかぶさる」というイメージになる。仮面の仮にはこのイメージがもろに現れている。これは家という語のコアイメージと全く同じである。仮と家が同音である理由は深層構造が共通するからである。つまり「覆いかぶさる」というコアイメージが具體的文脈では「いえ」と「かり」の意味を実現させるのである。仮?家だけではなく、下?夏?胡?庫などにも拡大させ、大きな単語家族として統括したのは藤堂明保である。さて「一時的な間に合わせで本當ではない」という意味のk?gを表記するのが「假」である。これはどんな意匠が工夫されているのか。ここから字源の話になる。「叚(音?イメージ記號)+人(限定符號)」と解析する。叚は楷書では形が崩れているが、金文に遡ると、「廠(垂れたもの)+〓(ある物)+爪(下向きの手)+又(上向きの手)」と分析できる。布やベールのようなものを両手で物に覆いかぶせる情景を設定した図形である。これによって「覆いかぶせる」「上からカバーして実體を覆い隠す」というイメージを表すことができる。かくて假は実體を隠してうわべを取りつくろうことを暗示させる。これがk?gという語を表記するための図形的意匠である。
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