日本京都和中國洛陽有怎樣的淵源?

一直對中國古典文化有興趣,然而現在在學日語,了解到了京都,在課上發表上想做關於京都和洛陽的,知友們幫幫忙啊,有圖就更好了


本人ID為@貓眼觀爻尤知半 ,因為一時操作失誤不能再次回答此問題,才不得不另開一個一次性帳號「貓不語」來回答此問題,現特別聲明並標明版權,禁止轉載。

日本京都與唐長安城淵源極深。

先看京都初建時之規劃及樣貌,即平安京平面圖。

再看唐長安城平面圖。

再看唐洛陽城平面圖。

不難看出,平安京(京都)在初建時(相當於唐時期),其整體規劃高度仿照隋唐長安城。城市方方正正,以朱雀大街為中軸線東西兩部分近乎嚴格對稱,而宮城與皇城,都位於城市的北部正中央,與天上的北極星對應;這一點唐洛陽城不具備,洛陽的宮城偏於城市西北角,整座城市洛水貫通,東西並不對稱。再看,平安京與唐長安城都設有東市、西市兩個商貿中心,且以朱雀大街嚴格東西對稱;而洛陽城則設有北市、南市、西市三市,且分布雜亂。還有,平安京與長安城的皇城(宮城)正南門的名稱都是「朱雀門」,而洛陽城的皇城正南門叫作「端門」

綜上,平安京(京都)初建時,總體規划上高度仿照唐長安城,而與洛陽城沒有直接聯繫。但是平安京分為左右兩部分(如圖),左京仿照洛陽,右京仿照長安,而日後右京因為地形原因不宜居住,遂逐漸被廢棄,京都的發展也就以仿照洛陽的左京為主,故而有了「洛陽」的別稱。

在平安京左、右兩京的建設上,對長安、洛陽的模仿多來自模仿坊名,如永昌、崇仁、光德等坊名模仿自長安城,而銅駝、教業、豐財等坊名則模仿自唐洛陽城。而在平安京最重要的朝堂院、豐樂院及內里的殿堂建築的命名上,則幾乎完全模仿長安城,譬如大極殿、龍尾壇、紫宸殿、棲鳳樓、翔鸞樓等。

至於為什麼平安京在整體規劃與殿堂建築命名上更樂意仿照長安?這是因為長安城是隋唐兩代的京師,政治地位無可比擬,譬如同時出現於隋唐長安城與平安京的「宮城居於城市北部中央」現象,就很有可能是當時的京城禮制要求,有學者認為隋唐洛陽城的宮城偏於西北一角,便是當時的城市建設禮制要求

當代,日本京都市在中日兩國剛剛建交的1974年便與西安市締結了姊妹都市、提攜都市關係,而京都府更是在1983年就與中國陝西省締結了自己的第一個海外姊妹州省、提攜州省關係,這其中的急切、誠摯不難看出。這一貫穿了千年的淵源還將繼續。


作為一名在西安讀日語的大二狗

就說一些過去一年當中出去玩的經歷吧

青龍寺裡面有好幾個古迹寫有「中日友好」「xx(日本僧侶)紀念堂」

超有名的櫻花也是當時從日本引進的

旅遊景點(尤其是涉及到古代或者佛法的地方)一定會有中日對照的說明文字

之前相互學習的歐吉桑也說過 西安和日本有奇妙的緣分


樓上好多答非所問。

我也答非所問一句:人家問京都洛陽,沒問你長安,就算你長安和京都的淵源大於洛陽和京都的淵源,又用得著你們在這個問題里這樣抬高貶低?什麼什麼長安城建的規矩洛陽城建的雜亂無章。你有什麼資格說古人建的規矩不規矩雜亂不雜亂?你比秦皇漢武還牛?也不知道現實中多空虛,天天來知乎感覺自己是住在長安城的李世民一樣


我覺得最高票回答並沒有錯啊,京都的總體布局是模仿長安

因為洛陽的宮城在西北,市坊也不如長安對仗工整,城市總體呈直角梯形,皇城的正南門叫端門。而平安京的建設很明顯不具備以上屬於洛陽的那些特徵


留位,查閱資料之後重新回答。簡單說一下就是,京都規劃時仿照隋唐兩京洛陽,長安。但在具體施工過程中長安那一邊別捨棄而都存洛陽一側。因此今天日本京都也叫「洛陽」。

反對樓上@貓不語 所言。

其實日本學者認為日本都城是模仿的漢魏洛陽城(比例尺寸更接近漢魏洛陽城),下面這個圖是漢魏洛陽城,大家自可對比唐長安城日本京都。

1994年根據文化遺產遴選標準N(Ⅱ)(Ⅳ)被列入《世界遺產目錄》

世界遺產委員會評價:

古京都仿效古代中國首都形式,建於公元794年,從建立起直到19世紀中葉一直是日本的帝國首都。作為日本文化中心,它具有一千年的歷史。它跨越了日本木式建築、精緻的宗教建築和日本花園藝術的發展時期,同時還影響了世界園藝藝術的發展。

古京都遺址位於前首都平安京區域,建造於公元794年(平安時代開始),從那時起到江戶時代(1600-1868)一直作為首都,同時在這裡也造就、培養和保留了日本許多傑出的文化。與這一地區的其它歷史建築一起,17座建築被列入世界遺產名單,並被確認為重要的歷史和文化寶藏、作為日本典型的文化遺產而得到保護。許多已經被確認為國家歷史建築和特別保護的花園,被列入了文化保護法範疇。另外,優美的周圍環境也得到特殊的保護。

這座千年古都的最初設計是模仿中國隋唐時代的長安和洛陽,整個建築群呈長方形排列,以貫通南北的朱雀路為軸,分為東西二京,東京仿照洛陽,西京模仿長安城,中間為皇宮。宮城之外為皇城,皇城之外為都城。城內街道呈棋盤形,東西、南北縱橫有秩,布局整齊劃一,明確劃分皇宮、官府、居民區和商業區。


@安邑生

上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。

上洛の「洛」は「洛陽」を意味する。平安時代、平安京を指して中國の都の名を借りて「洛陽」と呼ぶことがあった。やがてその一字を採って「洛」だけでも平安京を表すことになった。また一説に、左京を洛陽、右京を長安と呼んだ

。 しかし當時、「長安」である右京は居住に適さない濕地が多かったことなどから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。このため「洛陽」は都と同義になり、その一字「洛」をもって京都を指すようになり「上洛」「入洛」「京洛(けいらく)」「洛中」「洛外」などの言葉が生まれた。上洛?入洛は共に京都に入ること言い、京洛は京の都のことを指した。また洛中は京域內を指し、洛外はその外周地域を指した。なお、狹義では、上洛とは室町時代末期(戦國時代)に、京都にいる足利幕府の將軍を保護することを意味し、結果として全國支配に必要な権威をもたらすことであるとされた。詳細は以下に記す。

そもそも室町時代においては、多くの守護大名は京都に常駐していた。それら守護大名が守護に任じられた領國と京都を往復する事は頻繁にあり、広義においての上洛は珍しい事でもなかった。

しかしながら16世紀半ばになると、応仁の亂以後100年以上も続く政局不安狀態はすでに常態と化していた。少なくない在京守護が、下克上や主君押込によって、守護代や國人領主などの家臣筋からのしあがった戦國大名によって、実質的な支配権を奪われた。支配権を保った守護大名も、そうならないために領國に常駐せざるを得なくなり、いわゆる守護大名の戦國大名化が起きた。そのため戦國大名はほとんどが自國に常駐し、京都に上る事、すなわち上洛はほとんどなされなくなった。京都に常駐した數少ない大名である細川氏や三好氏は、領國が京都とは隣接している。

しかしながら多くの戦國大名は、室町將軍や朝廷から、守護職や官位を受けており、使者を介しての京都との連絡は保っていた。上杉謙信や織田信長のように、さほど多いとはいえない兵、あるいは僅かな供を連れて、広義での上洛を行った例もある。このような狀況下において、天皇や室町將軍が在住する京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町將軍を保護する立場になる事は、大きな権威をもたらす事であった。すくなくとも室町將軍は形式的には全國の支配者であり、その保護者となる事は、政治的影響力を高める事となった。しかしながら戦國大名が上洛を企図しても、実際には領國における抗爭に妨げられ、成功した者は少ない。

このような狀況下で実際に「狹義での上洛」を果たしたと言えるのは、永正(1508年)に足利義稙を擁して上洛した大內義興と、天文(1546年)に足利義晴を擁して上洛した六角定頼と、永祿(1539年)に上洛した三好長慶と、足利義昭を擁して上洛した織田信長の4人だけである。ただし、六角氏の領國は隣國の近江國であり、三好氏の領國は四國にあったものの、畿內にもある程度の支配権を持っていた。

大內義興の上洛の大義名分は、舊秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった。だが、大內氏の場合、それが完成する前に尼子氏ら反大內勢力の挙兵に阻まれて領國への帰還を余儀なくされた。六角定頼の場合は、領國が京都の隣の近江であるものの大內義興と同様の名目で入京しており、幕政にも口入の形で関與しているところも義興と共通している。だが、定頼の沒後の六角氏は淺井氏の反抗など國內問題に追われ、三好長慶の上洛を阻止できずに衰退していく。

それに対し三好長慶の目的は、將軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿內を支配することにあった。しかし、織田信長は、古い権威ではなく武力によって新しい秩序を作ろうと考え、彼の上洛はその足がかりとして行われた。足利義昭を奉じて上洛したことは、既に一時的な舊秩序の回復ではなく、武力による新秩序の形成と全國支配の手段にすぎなかった。

なお、織田信長が上洛によって天下を取る一歩手前までいった事から、全ての戦國大名が上洛を目指したかのような解釈が広がっているが、異論も多い。有名な例では駿河國の今川義元が永祿4年(1560年)に上洛を目指したが、桶狹間の戦いで頓挫したとされる。また甲斐國の武田信玄が元亀年間に大規模な三河?遠江方面への軍事的侵攻である西上作戦を行い、上洛を目指したが、自らの急死によって頓挫したとされる。しかしながらこの2例については、本當に上洛の意図があったかについては異論が多い。

さらには全ての戦國大名が天下を取る事を狙っていた訳ではない。毛利元就が自分の子孫は天下を望むべからずと遺言した事は有名な話である。後北條氏は初代の伊勢宗端(北條早雲)が室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の分家出身であったが、二代目の北條氏綱以降鎌倉幕府の執権?北條氏の後継を稱して関東での勢力圏拡大には熱心であったが、天下取りの意図は見えなかった。

また、上洛がすなわち天下取りの必須條件だったかのように言われる事もあるが、これにも異論がある。天下を取る可能性があった戦國大名として名前があがる伊達政宗や九州の島津氏、あるいは最終的に天下を取る事になった徳川家康も、室町將軍を擁して上洛した事は一度も無い。


跑題說一個關於洛陽的

前一陣看真田丸,那個時代的日本人會把外地人去京都稱為 「上洛」, じょうらく

字幕組解釋說是日本人在模仿唐朝的洛陽來稱呼他們的首都

當時我就沒忍住笑,我們叫洛陽是因其位於洛水之北,你們跟著瞎湊什麼熱鬧呀


按某地人的觀點,日本中國地區在抄的中國建設的,石家莊和東莞的長安也抄的漢唐京師長安建設的? 還能不能讓我大荷蘭吹牛逼了2333


京都為何不叫長安而叫洛陽?不能讓我大西安吹牛逼了


中日交流還要從遣唐使開始。


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