日語中う行改あ行+す表使動是什麼固定用法?

例如飛ぶ→飛ばす


在日語中,使役和他動詞其實往往是很難分清的。「飛ばせる」「飛ばす」都可以做「讓……飛一會兒」理解,不是嗎?(當然「飛ばせる」還能當「飛ばす」的可能形式)

而且表示使役的助動詞「せる」本來也是「す」,不過不是五段活用而是下二段活用。

所以大野晉說

A 「す」が付くと、他に働きかける意味になる

 日本語の自動詞?他動詞の問題は、受身と使役の言い方に関係しています。

 他動詞とは、主語が、ある動作をして、その動作がほかの目的に及んでほかのものを処分したり、影響を及ぼしたりするものです。使役との顕著な違いは何かというと、使役は主語が動詞の示す動作を自分ではしないで、だれかに「…させる」のです。つまり、使役は、自分でしないでほかの人にさせるということで、他動詞「取る」と使役の「取らす」とでは動作の主が変わってしまいます。

 別の例でいえば、①「私がBさんを殺す」と、②「私がBさんを殺させる」とでは、「殺す」の主體は別になり、②では私は「殺す」という動作はしないで他の人がするのです。

 ところが、言葉の作り方の上から見ると、日本語では、使役の形と他動詞との區別がつきにくいものがあります。

 例えば、「す」を付けると他動詞を作る場合があります。簡単な例は、「余す」と「余る」、「移す」と「移る」、「起こす」と「起こる」、「落とす」と「落とる(劣る)」、「返す」と「返る」などがありますが、「す」が付くと他動詞になり、「る」が付くと自動詞になります。つまり、他動詞と自動詞が「す」と「る」で區別されているわけです。

 それから「いだす」と「いづ」、「暮らす」と「暮る」、「果たす」と「果つ」、「起こす」と「起く」、「落とす」と「落つ」というようなものもあります。この場合にも、「す」が付くことで他動詞になっています。この動作は自分がするのです。

 ところが、例えば「滝の歌詠よます」という場合の「詠ます」は、自分で詠むのではなくだれかに詠ませるので使役です。しかし、この「詠ます」という形は、「いだす」「暮らす」「果たす」「起こす」「落とす」という他動詞と同じく、他に働きかけるという意味を含みます。ですから要するに「す」が付くと他に働きかけるわけで、それが単に①他の物に働きかける意味の動詞でもよく(他動詞)、②他人に動作をさせる意味でもよい(使役)。その二つは他に影響を及ぼすという點で共通です。

 これは日本語の特徴で、英語の使役ならば Let him take とか Make him take とか、必ず、Let とか Make を加えます。

「る」は、自然に…する動作

 一方、自動詞というのは、ある動作とか狀態がそれ自身で行われて他に及ばないものです。先程の「余る」「移る」「起こる」「劣る」「返る」のようなものもありますが、例えば、「上ぐ」に「上がる」、「重ぬ」に「重なる」、「障さふ」に「障る」、「捨つ」に「捨すたる(廃る)」、「生む」に「生まる」というのがあります。これは「る」が付くことで、「自然に上に行き」、「自然に重なり」、「自然に障り」、「自然に駄目になり」、「自然に生まれてくる」ことを表すわけです。

 これは、自動詞の語尾として「る」が付いた場合ですが、単に「る」が付いただけでなく、実は「ar」が付いたのです。「上ぐ」が「上ぐある」(ag-u → ag-ar-u)となり、「重ぬ」が「重なる」(kasan-u → kasan-ar-u)「捨つ」が「捨たる」(sut-u → sut-ar-u)というふうに「-aru」が付く。これが付くと自動詞になるのです。

 ところが、例えば「忘られず」(wasur-u → wasur-ar-u)とか、「冬はいかなるところにも住まる」(徒然つれづれ草ぐさ?五十五段)(sum-u → sum-ar-u)とか、「思はるるかも」という場合、「-aru」が付くと自発とか自然可能とか受身になります。つまり、受身の助動詞と、自動詞を作る「-aru」とは、起源的に同じものなのです。

 だから、日本語の受身形は、本來的に人間が主語でなければ使われなかった。生き物でないと受身は使われない。英語は無生物を主語に立てて受身を作れるのに、日本語はそれができなかったということは、自動詞の語尾と受身の助動詞とが同じというところに、ちゃんと現れているわけです。

 日本語で他動詞と自動詞の區別がなぜつかないかというと、使役形と受身形というのを最初からはっきり意識していなくて、自然にそうなるとか、自然にそうさせてしまうという考え方があるからです。また、他を目的とする他動詞と、他人を使う使役形との區別がつかず、共に「す」を加えて表現しました。

目的を示す「を」を伴えば他動詞

 また、格助詞「を」を伴えば他動詞であると普通考えられています。概してそうなのですが、例えば、「道を行く」の「行く」は自動詞です。この場合の「道を」は「行く」動作の目的でなく、単に「道を通って」行くだけです。だから「を」を伴えば他動詞、と単純にいうことはできないので、その「を」が動作の目的、働きかけを示す「を」であることが必要です。

 それと同時に、繰り返しになりますが、日本語の他動詞の語尾は使役の助動詞と同じであり、自動詞の語尾は受身の助動詞と同じということがあります。それが、自動詞と他動詞の區別が明めい瞭りようでないということと関係しているのです。


非固定用法。他動詞而已。

記下來,學久了這些變形或者他動詞自然感覺出來了。


來自古日語的す使動


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