日本的遊民(流浪漢)的真實生活狀態是怎樣的?


這個問題問得很好,看了這麼多答案也就一個匿名答案最靠譜。

日本的貧困層也算是我研究課題之一,所以就來說一說日本流浪漢的真實生活狀態。

日本的流浪漢叫法很多:ホームレス、路上生活者、野宿者等,廣義上ネットカフェ難民(網吧難民)、ビデオ店難民(錄像廳難民)等所謂無固定居所日雇労働者(一日臨時工)也可以算作是流浪漢。

關於他們很多日本人都不甚了解,我曾經問過很多日本人對於流浪漢的看法,得到大部分是「追求自由的人」、「沒有骨氣的人」、「他們選擇這樣的生活可能真的很快樂吧」、「只是不願意努力的人而已,努力的話脫離流浪生活還是很容易的」這樣的答案。但實際上日本流浪漢的生活非常的艱難,並且一旦淪落為流浪漢,是很難再回歸正常社會的,而日常伴隨他們的大部分是貧窮、疾患、死(餓死、凍死、暴力致死)等等一般人難以想像和承受的苦難。

「野宿者に至る一段一段を下りていくのは容易だが、元の社會に復帰するには落ちてきたいくつかの階段を一度に上らなくてはならず、自力では事実上不可能に近い」

渣翻譯:「一段階梯一段階梯的向下慢慢變為流浪漢十分的容易,但是如果想要回到原本的社會中去,就必需要一口氣爬上這些階梯,事實上靠(流浪漢)自己的力量基本是不可能的」

↑這是日本社會運動家、野宿者研究者生田武志提出的「カフカの階段(卡夫卡階梯,源自卡夫卡小說『致父親的信』中的一節)的大致總結,圖如下

可見如圖上所示從普通人變為流浪漢是一階段一階段的,而導致他們成為流浪漢的原因很多,失業、大量借金、家庭暴力等等、甚至有很多低收入人群在從階梯一段一段滑下來的期間根本沒有意識到,等到真正欠了一個月或者兩個月房租被趕出家門後,就成為流浪漢並無法脫身了。

舉例:

獨自來到東京都打拚的A桑,靠在居酒屋打工在都內生活,因為某些原因和店長吵架,於是被被解僱,失去了收入的A桑,在找工作的時候,因為拖欠(或晚交)了一個房租後被趕出了公寓,這時A桑就成了流浪漢,是不是很不可思議?

在日本一旦喪失了住所,基本上就喪失了身為社會人的正常生活的權利,因為找工作需要填住址、申請各種證件需要填住址、填任何錶格時最重要的也是住址一欄。

↑在這裡會有人產生疑問了:為什麼A桑不回老家?或者投奔親戚?

所以要分情況討論。一方面很多流浪漢是90年代泡沫經濟(08年經濟危機也有一部分)導致破產,為了不連累家人自願成為流浪漢的,這些暫且不表。

主要講另一群人,也就是所謂和親人之間縁切(斷絕關係)狀態因為他們成為流浪漢家裡根本不會管也管不了(單親家庭,父母欠了一屁股高利貸,父母賭博吸毒等),他們無法依靠父母,事實上親人朋友也無法依靠,現在日本所說的無縁社會(這又是另一個問題了)是非常常見的。很多日本貧困階層的孩子高中上完不得不面對直接步入社會這種局面。

感覺這麼寫下來寫幾本書也寫不完,我最近又有點懶。。。。

先回答題主問題吧。如果題主有想問的問題可以提出來,我會再補充的。

1:他們的基本食宿需求都能得到滿足嗎?

完全得不到滿足。

事實上每年都有相當數量餓死的流浪漢,但是目前為止有不少NGO和宗教機構對流浪漢的各種支援活動,包括免費發放食物,夜晚巡邏對流浪漢搭話(來試探流浪漢的健康狀態,因為窩在紙盒子里不發一聲默默死去的例子太多了)。

但更多的是凍死的,病死的(流浪漢會患各種各樣的病症,比如結核這種在日本基本已經消失的過去の病気,在流浪漢之間非常普遍)

至於流浪漢的住宿,以我主要研究的東京都內為例,他們可以居住的地方是越來越少的,東京都內的政策基本是不管這些流浪漢的死活,只是一味的驅趕。

具體事例可以參考1994-1996新宿ダンボール村強制排除

這裡估計會有人產生疑問了,為什麼他們不申請生活保護(相當於中國的低保,東京都內50歲單身月額基準可是135310円)?

簡單說明一下,很多流浪漢是不知道自己可以申請低保的,是真的不知道!另外一些知道生活保護然後去申請的人呢?他們大多數會遭遇一種叫水際作戦的應對,簡單解釋就是市或區役所以各種各樣的原因拒絕他們的申請,說白了就是打太極,對這有興趣的可以去查相關資料。總之大部分流浪漢並不是想自由所以流浪,而是被逼無奈。

PS:流浪漢撿飲料罐大概是1KG換90日元,他們很多人一天走30-40公里撿來的罐子就換800多日元,對比日本一份便當500日元,還會覺得他們是真的享受所謂的自由的流浪生活么?

2:普通人是如何對待他們的?

日本普通民眾對他們根本不本了解,除了專門搞這方面研究的人以外真的沒幾個人對他們感興趣,所以他們在日本社會上才如此弱勢,不管遭遇多麼悲慘或者死多少都不會被任何人關注。

另外一些普通民眾(以未成年或者年輕人為主),甚至會去襲擊這些流浪漢, 針對流浪漢的若者(年輕人)襲擊事件也算是相關研究者們最頭疼的事情了。

根據我導師提供的資料(東京都內347名流浪漢的問卷調查結果),40%的流浪漢表示受到過襲擊,其中襲擊者38%為小孩?年輕人。

其中有幾個例子我比較印象深刻:

一個是流浪漢B桑每到下雨天就會緊張到失眠,為什麼呢?因為他曾經在下雨天街邊睡覺時,被好幾個年輕人用雨傘戳醒後施加暴力,而且他還有被小孩子拿氣槍射擊過的經歷。

另一個是C桑,他曾經在公園睡覺時被人扔過塑料瓶子,而且瓶子里還有沒喝完的飲料,也有睡會覺時被扔過煙頭的經歷。

對此以日本三大貧民窟之一的大阪?釜ヶ崎為主進行支援活動的NPO?Homedoorホームレス狀態を生み出さない日本へ NPO法人Homedoor甚至專門去當地的小學?初高中做了流浪漢相關的知識普及,並且組織了一系列與流浪漢接觸的活動,目的就是為了減少兒童?年輕人針對流浪漢的襲擊行為。(雖然有一定成果,但更讓人失望的是一部分之前有接觸過流浪漢的兒童成為了新的襲擊者,可見這方面的教育真的還是十分欠缺,或者說大眾對流浪漢固有的偏見沒有改觀的話,受到大人教育的孩子更是難以改變自己的歧視行為)

1995-2016年期間,日本全國有22人以上的流浪漢在被襲擊中死亡,其中東京12人。

其中比較有名的案件為:

1983 橫浜浮浪者襲撃殺人事件

1995 大阪?道頓堀?ホームレス投げ込み殺害事件

其他還有很多感興趣的可以去查一查。

3:一旦成為了遊民有多少比例的選擇重新融入社會?

我一開始也說的卡夫卡階梯就是為了解釋這一點,一旦成為流浪漢是很難很難很難回歸到正常社會的。

首先在日本打工或者生活的其他方面最基本的就是需要填寫住所,沒有住所在日本社會寸步難行。

假設如果運氣好得到了生活保護有了住所(低保),但是找工作時是需要填寫履歷表的,於是身為流浪漢的那些年自然就成了空白,在面試的時候絕對會被問到的,如實回答的話不管什麼工作都不會被錄取的(不要說履歷造假,這在日本社會不太適用)。

所以流浪漢就算得到了生活保護,重入社會仍然是個難題,很多流浪漢因為重入社會遭遇到種種歧視致うつ病(憂鬱症),甚至自殺的例子也不少見。

以上。

我要睡覺啦,題主如果還有什麼想問大可問我(比如genderの貧困、高齢者の貧困、女性の貧困等),如果我有時間的話都會盡量回答的ww


首先寫一下我實際遇到過的一個流浪者。

去年有一天我半夜去買夜宵,在河邊看著一個中年流浪漢拿了一大口袋瓶子很吃力的走著。

不同於東京大阪,我所居住的愛知縣流浪漢十分少見,於是我和他聊了一會。本來想給他一千自己買點什麼吃,他婉拒了,倒是很欣然地收下了我的兩個包子。

我感覺他首先理智是非常清醒的,可以說和普通人沒有區別,甚至非常有禮貌。他因為投資不當而破產,為了保護妻兒,選擇了離婚以一人之力硬撐債務(具體多少我沒問)。因為這個,他無法與妻兒相見,因為一旦見面就有可能會被判斷是假離婚,妻兒也要承擔債務。這個案例我記得過去是老冰還是薩蘇曾經說過一個類似的,沒想到在現實生活中也能見到。

老家是青森縣,流浪了幾千公里來到愛知,全靠兩條腿。靠半夜收集垃圾維生(1公斤約100日元)。日本的便利店和超市每天半夜會把過了最佳賞味期的便當壽司扔掉,他偶爾會」拿「一大包食物。為什麼說」拿「,是因為即使他吃了店裡扔掉的垃圾食物中毒,店裡仍然要負責任。所以為了不給他人添麻煩,他是以一種半偷的方式來」拿」。

大叔很健談,向我要了根煙,說之前的兩三年他一直露宿東京,流浪漢聚集點裡會有NPO和政府每天發食物,一般是炒麵(焼きそば)或者飯糰(おにぎり),運氣好能吃到牛肉燉土豆(肉じゃが)。我又問他為什麼不去申請政府生活保障補助,他回答說沒有固定住所,不能申請。也曾想嘗試找工作,也是沒有固定住所,根本找不到任何工作。

至於他今後的打算,他很茫然,說工作也是沒有意義,不如這樣悠閑自在的好,他此時此刻只想洗個澡,卻又不肯下河洗,因為「不想污染河川」。

煙抽完了,大叔背起他龐大的口袋,默默消失在黑夜中。

然後補充一些厚生勞動省的調查結果。

醫療上多是志願團體提供幫助:東京プロジェクト|世界の醫療団 日本の活動|活動內容|世界の醫療団

生活維持,自力更生方面,則是厚生勞動省提供支援:ホームレス対策|厚生労働省

厚生勞動省建立過數個ホームレス自立支援施設(流浪者自立支援設施)提供衛生,飲食,臨時居住。

2012年流浪者生活現狀調查(PDF):http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000002rdwu-att/2r9852000002re1r.pdf

  • 流浪者的高齡化,長期化的情況在持續深化,60歲以上的階層,流浪10年的人超過3成。

  • 流浪者自立支援設施利用者多是年輕人或者流浪時間不長的人。

  • 總體6成(包括60歲以上的流浪漢)在從事有收入的工作,流浪3年以上的人7成都在從事一些工作。

  • 今後的打算上,長期流浪的人大多覺得保持現狀就可以了。

  • 通過流浪者自立支援設施確保了工作和住所,但因為一些原因重新成為流浪漢的,仍然存在一定數量。

  • 45歲未滿的中青年層來說,在流浪前的工作大多不是常勤。以前從事的工作大多是服務業。過去的高齡層則多是建築工人。

  • 流浪的理由通常是破產,失業,受傷,生病。年輕人則因為人際關係,勞動環境惡化,欠款等等開始流浪。

參考數據PDF里都有,由於是掃描版看不太清,這裡不翻譯了。


*本答案任何部分(包括本答案鏈接)禁止任何人和團體以任何形式在任何平台轉載/分享。?所有權利歸作者所有*

文字會比較長,先發幾張照片。請自行對應下文:

(4名警察騎自行車在愛鄰地區巡邏。街道兩邊堆滿了自行車。警察不敢使用警車巡邏,並且人數是通常其他地區人數的兩倍)

(愛鄰地區的收容所,被稱為"Shelter"的設施。一共有兩處,分別能收容400和600人)

(愛鄰職業安定所周邊的居無定所的人。愛鄰職業安定所是日本唯一一個不介紹工作的職業安定所,這種現狀已經維持了42年。流浪者和底層勞動者通過設施周邊的私人「手配師」可以找到按日結算的建築工地工作)

(疑似為地下賭場或毒品買賣望風的人)

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雖然是去年的問題,但我覺得自己可以用親身體驗答一下。

(後面文字會很長,先發一些圖吧)

我的畢業論文寫的就是關於日本流浪漢以及貧民窟(Doya-machi)的內容。以三大貧民窟之首——大阪的愛鄰地區展開(我在愛鄰地區實地調查6次,其中一次在該地區連續生活5天)。

通過NPO法人釜之崎支援機構,我獲得了很多當前最新的資料,以及難得的對未來的預測。

論文的調查手段除了親身體驗和採訪NPO法人,還包括問卷調查和直接訪問當地包括流浪者的居民。

單獨直接訪問受訪人數合計23人。

目前論文尚在最終定稿過程中,並將在定稿後公開發布。

在公開發布之前,回答此問題的前提,是讓大家了解日本的貧民窟(這是我自己給「Doya-machi定的義)。

一共有三處,一處是大阪愛鄰地區,一處是橫濱壽町,一處是東京山谷地區(南千住一帶)。

三者規模順序同上,但是所在城市的規模順序正好相反。

可以參考愛鄰地區的百科:西成區_百度百科

ドヤ街(Doya-machi)一詞的」Doya",是日語旅館一詞」Yado"反過來寫形成的詞。指的是簡易宿泊及檔次更低於簡易宿泊的「下宿」,Doya街即使Doya集中的地區。

·為什麼會有ドヤ街?

無論是戰前還是戰後,日本都有過高度發展的時期。一個社會的高度發展,很重要的一個表現就是對建築、建築工人的劇烈需求。而建築工人主要由來自偏遠的農村地區,或者城市裡不願或者無能力或者財力不允許接受高等教育的體力勞動者組成。這一點我們作為中國人應該非常好理解——是的,日本在發展時期同樣也需要湧進城市的農民工。

ドヤ則基本為這些建築行業人員提供廉價住宿。ドヤ街的形成便好理解了,因為建築工人都住在一塊,聘用起來很方便

大型的工地會提供工棚住宿,我們在國內也經常能感受到這一點。但在對建築類別的需求上,日本與中國有很大的區別,那就是日本的建築需求中除了」蓋大樓「」建小區「,更多的是」建小型獨立住宅或其他小型建築「(與日本的土地私有和居住習慣相關)。而這些小工程的特徵是工地小(不具備提供工人住宿的物理條件)、工期短暫以至於工人往往是短期臨時僱用。這就是為什麼工人需要「聘用起來很方便」了。總之,建築工人從農村來到城市,晚上住在ドヤ街的簡易旅館裡,白天去各個工地幹活,一個工地的工程結束後回到ドヤ還能很快被其他的需求方招去幹活,因為手握工人需求的「手配師」都會去ドヤ招人。ドヤ街不但是臨時的住宿營地,也是建築業的人才市場。

·ドヤ街的沿革——從司空見慣的城市組成部分到貧民窟的代名詞

(本節待完成)

這些地區的特點如下(以大阪為例):

1、與周邊其他地區的發達形象形成鮮明對比,並有明顯的自然形成的分界線,比如一條街的一側是貧民區,充滿了流浪漢和底層勞動者,而街另一邊的高級公寓鱗次櫛比

2、流動人口聚集,很多人沒有固定住所。大阪愛鄰地區小小的一塊地方,大致推測共有9000人無家可歸者居住(出自NPO法人釜之崎支援機構事務局長松本裕文先生的採訪)

3、僱傭環境惡劣,沒有正規僱用

4、治安惡劣。愛鄰地區是日本唯一一個近年發生民眾與警察衝突暴動的地區。也是著名的擁有地下賭場、毒品買賣等在其他地區很少能存在的犯罪的地區。黑社會(指定暴力團組織)事務所數量全國之首。

5、衛生條件醫療條件極差:愛鄰地區的肺結核發病率為日本平均值13倍,等同於阿富汗水平。

日本90%的流浪者都生活在這樣的地區里。物以類聚是一個原因,更重要的是這是自古以來歷史原因造成的傾向。近幾十年生活條件改善,原本分布在各個都市的Doya-machi逐漸瓦解,現在只剩三個,流浪者們也向這些地區開始集中。

另一方面,眾多社會團體經常在此類地區開展救助活動,包括免費發放食物,提供就業支援,提供健康衛生服務等等。政府的態度趨近於默認,或者說是維持現狀,因為根據推測這些地區將在20年內消失殆盡。

流浪者的生活是怎樣的?大致可以用愛鄰地區的生活來回答。這裡不妨引用我當時實地居住在該區域時其中第一天和第二天的考察報告作答:(由於是論文用資料,用的是日語撰寫,今天時間不夠,以後再補翻譯)

以下為第一天調查報告,實施於2013年6月25日

徹底調査の1日目だといって、以前もここの辺に1泊したことがあった。

その當時は友人と一緒に大阪で旅行に來て、インターネットで外國人受付可の素泊まりを探した結果、さすがこんなとんでもない安い値段に誘致され、何もわからずにこの地域に入ったということであった。

その経験から、この地域を知り、かつ興味も持つようになった。更に、あいりん地區に関する內容の本も數冊手に入れて、単に貧乏だからこうなったわけではないということも認識でき、本格に調査を展開することにした。

真の徹底體験の初日は、2013年6月25日。

大阪中央區南船場にある高級品輸出入貿易會社でインターンシップに參加し、週4-5日連続大阪に滯在することをきっかけに、この地域に密接することが容易になってきた。

しかも、勤務地からあいりん地區の最寄駅までは、わずか電車1本で3駅。皮肉なことに、會社が高級品を取り扱っているというのがもちろん、南船場辺りの長堀橋、心斎橋エリアには、LV、CARTIER、GUCCIなど、世界中で一番贅沢なブランドの専門店が集まり、まさに金持ちの天國となっている。しかし、地下鉄堺筋線に乗り、3駅目の動物園前から出て、その風景は一変。

橫浜壽町(三大ドヤ街のもう一つ)の普通の街との間にまるで明らかに境界線が引いているようであることと違い、あいりん地區の匂いは駅から出てすぐ感じられる。徒歩範囲にある天王寺辺りに最近できた近鉄百貨店が入居した超高層ビルが完全に見えるにもかかわらず、周囲には80年代のままのような景色しか見えない。

地上にあるこの阪堺電鉄南霞町駅。ここも、インターネットであいりん地區を検索すると必ず現すスポットの一箇所。確かに普通の駅とは全く違う感じがするのだが、もっと変なのは、周囲で歩いている人。何か違っているかな、と、思わせられていたのだ。

日本全國でも有數な路面電車區間があるこの阪堺電鉄の線路が、そのまま駅前の大通りを渡っている。踏み切りをわたって、もう少し進むと、大阪環狀線の新今宮駅がある。さすが東京の山手線と同じ位置づけのはずの環狀線のすぐそばにドヤ街があるということは、知らない人なら誰も想像できないのであろう。そういうことで、數ヶ月前に友人が誤って旅行の宿泊地をここにしたのだ。

早速その大通りを渡り、ドヤ街に侵入(進入)。

まず目にしたのは、この看板。これは、まさにあいりん地區の「かんばん看板」のではないか。

ほかのところではとんでもない値段の宿泊料金は、この地域の身分証明となっている。

大通りから分岐したこの道路は、2車線ではあるが、放置された自転車のおかげで見事に1.5車線に規制されている。道路の両脇には、簡易宿泊(多くはビジネスホテルと自稱)と安価居酒屋が殆ど。そして自動販売機の數はほかのところより多いということが感じられた。もちろん、たぶんあいりん地區という名詞を知る人ぞ知っている通り、その値段は50円~であり、他の地域では考えられない値なのである。

「人が違う」というのは、ここを歩いて先ほどより確実に感じられていた。

まずは、「女性と子供はいない」ということ。治安が悪い地域だから女性と子供は遠慮しているというのは考えられるが、実は言い換えれば、「おじいさんばかり」という言葉はもっと適切である。

ざっと見ると、まさか60歳以下の人間はいないようで、もちろん、20代はたった筆者1人。

そして、普通のおじいさんたちでもない。ボロボロの衣服を著て、だらだらしたり、大きな聲で何かに笑ったり、2?3人が組んでそのまま歩きながら缶ビールを飲んだり、日本らしくはない。

當然、変な人もたくさんいる。無表情で遅すぎる速度で道路の真ん中を歩いている人もいるし、周囲に誰もいないのに口から日本語っぽくない言葉をしゃべり続けている人もいる。寫真には映っていないが、ポイ捨ての現行はあっちこっち発生している。道路をトイレにする人もいるという話がよく聞いたが、本日ではまだ見つけていなかった。

簡易宿泊?居酒屋のほかに、弁當?惣菜を販売している店も多數ある。しかも半分露店になり、道の歩行道を佔有している。その値段を見ると、一皿100円くらい。もちろん、賞味期限はあの有名な玉出スーパーと同じように、1日切れ。

本日の宿泊地(恐らくこの數日間もここに)は、ビジネスホテル多賀というホテル。わりとこのエリアで上級なところのようで、最も安いのは1300円?泊の「D室」。あいりん地區には、850円?泊の旅館もあるという話を聞いたことがあるが、まだ見つけていなかった。

2.5畳の部屋(部屋より物置の感じ)に、エアコン?かなり古いテレビ?冷蔵庫までも付いている。窓もちゃんとあるというのはありがたい。そして清潔感が保たれていて、わりと悪いとは言えない。

トイレ?シャワーがないが、宿泊客に1日1枚、近所の銭湯の入浴券を渡してくれる。これを考えると、実際の宿泊代はまさに1000円前後になった。

徒歩5分圏內、複數の駅もあるし、あの玉出スーパーも3店舗ある。

↑どこを見てもほかのスーパーと感覚の違い「スーパー玉出」。あいりん地區を中心に西成?天王寺?堺に展開。日本1安いスーパーと言われている。

スーパー玉出でたくさんの食料や飲料を購入し、新しい道を選んで旅館へ帰る。ちょっと歩くと、あの有名な西成區警察署が現した。

さすが籠の中に入った巨大建物で、もう遅くなったせいか、警察官の姿が見えていなかった。

警察署のすぐそばにもかかわらず、路上駐車?自転車放置が普通にある。そんな細かいことを取り締まりする暇がないだろう、と。そして簡易宿泊や居酒屋も普通に、同じ道路に営業している。おじいさんたちの聲はあっちこっちで聞こえられ、よく聞こえないが、まるで「こっちは釜ヶ崎(この地域の舊稱?現在でも日雇う労働者たちに使われている)やろう」って叫んでいるようだ。

狹い部屋に戻って、施錠して、食料を冷蔵庫に入れてテレビを付け、1人切りの世界に沈んだ。

でもそんなに悪いことが目撃していないので、男1人としてここには満足だとまでは言える。

明日退勤後の夜も出かけてみたり、明後日の早朝から出動してみたりして、その風景がまた違うものになるのだろう。

以上、1日目の報告でした。

接下來是第二天(6月26日)的報告:

2日目の朝、思わず雨。

さすが調査に夢中して、天気予報を見ることを完全に忘れてしまった。

1日目のレポートを作成するために少し時間がかかりすぎて、慌てて宿から出る時に、大雨が降っている様子を見てもうしょうがないと思ってそのまま出ようとしている筆者の姿を気づいた朝當番のおばあちゃんは、中から傘を持ってきて、渡してくれました。

先日の受付と同じ親切な人であった。この宿泊はインターネットでも予約を受け付けているが、評判がわりと非常にいいことは、確かのことであることを、これでだいたい確認できた。

仕事に急ぎだし大雨でもあるので、朝は何の調査もせずに通勤に行った。

退社は午後の6時半。真夏のためこの時間では世界がまだまだ明るく続いている。勤務先の南船場から、地下鉄に乗らず、そのまま長堀橋からなんば方面へ歩いていくと、まずは高級ブランド品の専門店の前を通ることになった。Tiffany, Cartier, Dior, Miu Miu, Gucci, Luis Vuitton...いずれも會社の日常仕事でも觸れたりするブランド(貿易関係だから)。そして筆者は、自分がこういうお金持ちの買い物天國から、日が暗くなるのと同時に、野宿者の天國へ移動していることに気づいた。

以前車で退勤するときになんばを経由すると、まずなんばのぼろぼろしている部分を見てしまうことになる。しかし歩いていくと、そのような車だけでは便利な道は使わない。なんばは既にそんなによくはないところであることが、心斎橋?道頓堀?難波の各駅前を楽しめる観光客の人たちは、誰も知らないのであろう。

なんばから南海電鉄に乗ることにした。なぜというと、あの有名な萩之茶屋駅は、この鉄道線にあるからである。

南海難波駅は、なんばcityというショッピングセンターと同じ巨大な建物の中にある。広い改札を抜けて、7?8ホームくらいの大きな駅構が目に當たってくる。一番目立ったのは、全國でも知られている関西空港への青い特急列車。そして視角を変え、狀況が平均よりいい通勤型電車がほかの各ホームに停車している。準急?特急などがほとんどだが、各駅停車は一見で見つけられていなかった。

本來も聞くつもりだったので、早速駅員の方に尋ねた。

「すみません、どの電車に乗るか困ってますけど。。」筆者は、故意に直接目的地を言わず、相手の集中力をまず奪ってくることにした。

「あ、お客様はどの駅で降りるか知っています?」制服がちゃんとしたこの駅員は、関西弁ではなく、標準語で対応してくれた。私鉄として大きい駅で外來客にきちんと対応するための南海電鉄の心構えなのであろう。

「萩之茶屋です」筆者もはっきりとする発音で答えた。

そして驚くことというより、むしろ予想の通りと言えるが、その駅員の表情に、微妙な変化があったのを、目撃した。極一瞬ではあったが、その変化の存在は間違えない。

筆者は、サラリーマンの格好ではなかったが、きちんと清潔感を保っている人間で、そして片手iPHONE片手某高級ブランドコインケースを握っていた様子なのに、行く場所は萩之茶屋なんて、とのこと、そうであった。

あいりん地區に行く外國人観光客や、日本人の中の節約派もある程度いるとは、これも誰も知っている事実ではあるが、筆者のように故意に自分を飾ってからそこのことを尋ねるという様子は、やっぱりレギュラーではないであろう。

そして各駅停車のホームは、結局、改札を抜けてすぐの広い場所では、見えないことがわかった。

一番左側へ行って、他の線路や種別の列車の最後尾に隠された壁沿いの通路を何十メートル行って、より短いホームがあった。そして停車中の短編成車両は、本當にボロボロであった。

行き先は、河內長野。わりと長い走行距離の電車とは言える。

車內は、既に60パーセントの乗車率のようであったが、筆者が乗った後は、あまり増えなかった。ラッシュにもかかわらず、すべての乗客が席を確保できた狀態で、電車がもう暗くなった外へ発車した。そして、筆者は一番先頭の運転室や前方展望ができる席に座った。

鉄道は、周りのところをもっと素直に示してくれるものだ。なんばを出て、先ほどの商店街や大通りに比べて、周りはまるで闇になっている感じ。

2駅目の新今宮は、実は筆者の宿泊地の最寄駅であるが、あえてそこから降りないことにした。

やっぱり環狀線との乗り換え駅のためか、乗り降りの乗客が多かった。新今宮から発車すると、車內に立つ乗客は普通にいるようになった。

500メートルほどの短い距離を進むと、もう萩之茶屋に到著した。実は、新今宮で停車する際に、既にこの小さな駅の光が見える。しかしこの光は、周囲唯一の光のような存在であった。

航海している船が、海の真ん中にある小さな島に著いたという感じであった。

そしてここでもっとショックな事実を體験した。それは、さすがここで降りるのが筆者1人しかいないことだ。

よく見ると、このホームは決して広くはない。けど誰もいないため、空いているから広いという間違う感覚がしやすい。

電車を待ち合わしていた人もいなかった。その一瞬、自分が別世界への電車に乗ったかという思いも。

階段を降りると、2口の改札があって、そして駅員室もある。無人駅ではない。

そして出口の橫は、先日スーパー玉出から宿へ帰る際に通った萩之茶屋本通である。夜20時くらいなのに、店舗は大半閉店された。しかし露店が2?3箇所あった。どうみても怪しい商品と店主で、うち1人の店主が本通から行っているおじいさんに叫んでいるのも目撃した。事情はわからない。

ついに泊まり先に帰った。今回のフロントにいる従業員は、台灣籍の方になった。

中國語で交流できるので、ほかの客がないかを確認し、話し合いをし始めた。

來日8年間の陳さんである。ここで正社員として働いているそうだ。先日と同じ治安の話をしてみると、「男性客、とくに若い人にはあんまり治安が悪いと注意する必要がない」と語り、「但し女性客がいたら必ず細かいことまできちんと説明してあげる。しかもうちは女性専用階が用意している」、と。

旅館についてのほかのことも伺ってみた。

「昨日のおじいさんもかならず説明したとおり、門限は夜11時から翌日3時、野宿者の侵入を防ぐためなんだ。お風呂に行くつもりだったら速めにしたほうがいい。うちでも入浴用具を販売しているが、直接に銭湯で買ったほうが安い。」

「長期とまりは受付できる。ただし部屋掃除は1週間1回。廊下にある電子レンジなどの使用は必ずほかの人のことを考えた上利用してください」、となど。

部屋で衣服を用意して、フロントで入浴券を1枚もらい、近くにある銭湯へ向かおうとしていた際に、後ろもう1人も入浴券をもらったのを見た。

身長が160センチ前後の40代男性であった。

故意にその方に待ってて、話かけにくいほうではないと判斷をしてから、聲をかけてみた。

「日本人の方ですか?」

をするのを見たのだ。

「はい。台灣からきました。」ウソをつけるつもりはなかったが、日中関係の悪化がこのような人たちの暇潰しの話題になっている可能性があって、余計な話を招致してしまう恐れがあることから、敢えてわざわざ自分が中國人であることを告白しなかった。「ここで長期的に泊まっていますか?」

「はい」

「毎朝あそこに仕事を見つけに行きますか?」

「はい」、と。やっぱり日雇う労働者だ。

「何年くらいここに住んできましたか?」

「3、4年くらいかな」、と。ついに聞いてくれた:「あんたはなんでここに?」

「取材に來た。」台灣籍従業員に、自分は大阪でインターンシップをしていると言ったが、どっちでもウソではない。

「へ?このところに興味があるの?」意外に所屬とかが聞かれなかった。

「そうです。」銭湯までは遠くないからなるべく質問をできるだけしようと、「すみませんが、お名前は伺ってもよろしいですか。。苗字だけでいいですよ」

「池田です」

「あっ、池田さんですね」

「はい。」

「今仕事は探しやすいですか?」

「だいぶよくなったよ」これも意外な話。なぜかというと、世の中の景気は今のところ決してよくなったとはいえないからだ。「つい最近に」

そして、知らなかった事実まで教えてくれた。

「最近台灣やフィリピンとかの外國人もあそこで仕事を探したりしているよ」

「へー!本當ですか」

「そうよ、普通に探してんだよ。毎日あったりしている」

「あ、そうですか。最近から日払いの仕事が増えてきたんですか?」

「そうよ」この方は、関西弁を使っていないのを気づいた。恐らくほんとうに近年大阪に來たのだ。「安倍さんのおかげでね」

「へぇ?安倍総理ですか?なぜ安倍総理のおかげで、景気がよくなったんですか?」

「だって、大きい會社が終わったんじゃん。」ついに笑い始まった。

安倍ノミクスと大きい會社が破綻することと、日雇う労働者の仕事に何の関係があるのか、自分が學校で學んできた経済知識で考えてみても、ぴんと來なかった。普段は、大手會社がリストラしたら、正規僱用であった職員がやむを得ず日雇う労働者になり、ここの仕事相場を厳しくさせることが考えられるが、その逆の結論はいったいどうやって出たのか、後日確認する必要もあるが、恐らくこの方の知識の欠如で、理解が誤った可能性も大きいのでは、と。

それからすぐ、入船溫泉という銭湯に著いた。一緒に更衣室に入って、來たばかりの外國人だから使い方が知らないかなと配慮してくれて、ロッカーの鍵のかけかたを自ら教えてくれた。

お禮をして、池田さんの後について中に入った。

早く洗いを終わらして、更衣室に出て、この銭湯の様子を観察し始めた。古い施設だと感じられるが、今まで行った各地の溫泉施設とは変わりがない。ただ、受付は男湯の中にあって、おばあちゃんはそこに座っている。(女湯も同じであろう)

入ったときに、シャンプー?リンス?石鹸の券を買ったが、値段はあわせて100円未満であった。そして20円の貸しタオルもお願いした。タオルだけは、ほかのところと違って、濕気か、きちんと消毒していないか、すこし匂いがしていた。シャンプーなどの単品値段も20円から30円くらいであったが、量が十分に入る小さい容器であった。

21時過ぎたせいか、人はそれなり多くはいない。やくざ系の人は2人くらいいったが、これもどこに行っても同じ程度の人數。

そこで筆者が池田さんに待っていた。後で牛乳を買ってあげるか、居酒屋まで連れて行くか、なんとか取材を続けたいと思っていた。

しかし、筆者が著替えしたにもかかわらずずっと更衣室で座っているのを見て、わざと自分に待っているのかと、池田さんが思っていたか、ほかの入浴客が入ってそして出て、一緒に入った顧客が全部行ってしまったまでも、池田さんが出てこなかった。

やっぱり筆者のことを遠慮していたかと思い、迷惑をかけないようにして、池田さんへの取材を中止して、銭湯から出た。

銭湯のおばあさんは、ちょうど出口で履物を整理していた。わざと聲をかけて、「この付近においしいお店がありますか」と、へたくそなせりふを使った。

「おいしいお店はないよ。お兄ちゃんは新世界へ行ってしまえばあるけどさ」ニコニコしていたおばあちゃん。

「ほんとうにないですか?比較的に良いほうもないですか?」

「せやな。ここの辺はどんなところか知っています?」

「知っています知っています。」

「だからないですわよ」

「そうですか。おばあちゃんはこの辺りに住んでいますか?」

「違うわよ、あたし、日本橋に住んでいるよ」

「へ?閉店したらそこへ帰りますか?」

「そうなんですよ、ちゃりんこでバーっと、帰ってしまい。」

「あ。。わかりました。ありがとうございます」

「ありがとうございました、またいらっしゃい」

と、話が終わった。

しかし、食事がしていないというのが、事実であった。

もう10時過ぎて速くしないと門限になってしまうので、すぐ道路の向かい側にある居酒屋に入った。

若い女性の従業員がホールにいた。あまりにも遅くなったし、見知らぬ人でもあるので、すこし驚きの表情をしてくれた。

「食事がまだできます?」と聞いて、

「ありますよ。チャーハンでいい?」と返事しながら、壁に貼っているメニューに手を指した。

わりと中華系のメニューだ。「じゃあ、チャーハンをお願いします。生ビールもいっぱいで」

「はい。」それでお姉さんが裏のキッチンへ:「ちゃおふぁん!(チャーハンの中國語発音)」

結局、中國人のお店であった。

話がスムーズになった。

アルバイトのお姉さんが、來日4年目、ずっと大阪にいるが、去年から付近のパソコン専門學校を通い始め、あいりん地區で部屋を見つけた。そしてこの店でアルバイトを始めた。キッチンにいたのは、店主であった。32歳で子供3人いるのに24歳前後のように見える。この店を2年前に開店した。

あいりん地區のことを伺うと、予想の通り「たいしたことはない」との返事。

実は中國人である筆者も、この普通の日本人が必ず危ない危ない行きたくないと言うエリアを最初に見た時にも、日本でもこんなとこがあるのだと驚いたほか、別にたいしたことがないと思っていた。中國の比較的な貧乏な町とは同じレベルだし、むしろよりいい狀況になっているようだ。

そして暴動に関する話もした。

「こわくはないよ」と。

最近の暴動は3、4年前。実は1日だけ続いた。労働者たちは警察と衝突になり、戦ったが、近所のお店や住民には損害をおよぶことはなかったという。

黃さんというアルバイトのこの女性に、「深夜1人であいりん地區の真ん中にある家に帰るのは危なくないですか」と聞くと、「全然」だと答えてくれた。

トラブルがあったのは、すごくたまにある、お店の中にお酒を飲みすぎた顧客から起こすたいしたことのないことしかなかったそうだ。その件數も、わりと都會の繁華街よりは少ない、と。

外國人だから労働者たちもそんなに関與てきたくないか、それともこのエリアは本當に不安全ではないのが事実なのか、これからまた確認する必要がある。

でも、「これからまた暴動が起こす可能性があるのか」と聞くと、その答えも「ありえない」であった。

なぜかと聞くと、「かつては労働者に対して不公平な分配が行っていたという話が聞いたが、それで暴動が発生したのだが、近年は皆を満足させる程度の生活保護や補助金が來ていて、文句を言わせることがなくなった」、と、店主が語った。

しばらくどうでもいい話をすると、時間が11時近くなった。この店も、11時に閉店する。

黃さんが自転車に乗って帰ったが、店主は店內で整理しとかなきゃいけなかった。筆者も、1人で暗いところにある宿へ戻ってきた。

街中のまだ営業している居酒屋からは、大きな歌う聲が聞こえる。そして道をじっと見ると、野宿者の姿が確かに何人かいる。その人たちに幸いなことに、晝間にすごかった雨が、當時はすでにやんだ。

安定な一夜になったあいりん地區が、一日の終わりを迎えた。

以上、2日目のレポートでした。

這個答案我會持續更新,不過下一次應該是在論文定稿以後。

我也會把其寫進專欄東瀛雜記(知乎專欄)。

今後的內容會包括流浪者的起源,各貧民窟的起源,目前社會各界的看法(包括問卷調查結果)以及現有的政府政策以及民間機構的活動等,基本上等同於把日語的論文完全譯過來。

這個時間會耗時比較長,但這些珍貴的資料我沒有理由不發出來。這才是真實日本的一面。

另外本回答嚴禁轉載、嚴禁以任何形式在任何平台分享,嚴禁任何人截取任何部分以任何渠道傳播。在完全完成之前嚴禁將本回答鏈接複製並以任何形式傳播。同時暫不允許知乎日報等採用和推送。


說兩個故事吧。

東京的流浪漢大多都是硬骨頭!


我一個要好的同學,住在多摩川,據他說,橋下有很多流浪漢住在自己搭建的紙屋裡,有時候漲潮的時候紙屋就會被淹掉,冬天來臨前,政府的人曾來向他們提供住處——不是大家一起打通鋪的收容所哦,而是每人分配一間兩室的公寓,就和附近的出租公寓沒什麼區別——但或許是出於自尊,沒有人接受這樣的恩惠。


311大地震後,政府曾派遣直升機來救援流浪漢,但流浪漢們聚集在河堤上,朝空中大喊,不要管我們,去救援更需要救援的人吧!


路過的來答一發。答案中的圖片全部來自網路,如有侵權,立即刪除。

90年代初期的某一天,日本經濟高度成長期的餘韻還未散盡,上野的 アメヤ橫丁(簡稱Ameyoko)市場人頭攢動,吆喝聲此起彼伏,一片繁榮景象。一個初來乍到的中國學生,卻看到了驚人的一幕。6-7個衣衫邋遢、蓬頭垢面的初老男子,正圍著一個垃圾桶,撈起裡面被丟棄的西瓜,在狼吞虎咽。

又過了沒幾天,在電視新聞里,看到了如臨大敵的日本警察,正在與新宿西口紙板箱村的住民們對峙。

年輕的中國學生,表示很震驚。

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JR新宿西口出來,有一塊寬闊的地下廣場。90年代初期,這裡曾經有200多名流浪者,聚居在用紙板箱搭建的「House」里。路過這裡的人,無不掩著鼻子加快腳步。對流浪者們來說,這裡卻是一塊風水寶地。不但可以避風遮雨,也方便「出行」,車站裡的公共廁所,幾乎成為流浪者們的專用。全日本能夠在百米開外聞到味道的廁所,恐怕也僅此一家。

除此以外,淺草附近隅田川岸邊的空地上,秋葉原電器街附近的高架下,也是流浪者們主要的聚居地。

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成為流浪者,大多數是因為經濟上的原因。有愛揮霍愛賭博好吃懶做的,有經營不善血本無歸的,有做了擔保被牽連背上巨額債務的,有被忽悠高價置業接盤後突然失業的。也有雖然窘迫但還不至於流落街頭的,卻因為家人的冷漠,朋友的背信而自願脫離社會關係的。

這些流浪者,有的已經混跡於此好幾年,有著自己的地盤和人脈。有的可能上個月還西裝革履拎著公文包出入於寫字樓與商戶間。

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據我所知,日本是沒有職業乞丐的。大多數的流浪者,願意自食其力。

流浪者沒有固定的住所,一般的兼職、鐘點工是不會雇他們的。

很多流浪者通過撿廢品、拾荒來換取微薄的收入。

最常見的是在電車上、月台的垃圾桶里撿拾被丟棄的雜誌。日本的上班族,在智能手機、平板電腦還沒有普及的年代,會在車站買一本雜誌或一份報紙,用來消磨上班途中在電車上的時間。看完以後隨手放在車廂內的架子上,或丟棄在月台的垃圾桶里。報紙當然是不值錢的,雜誌的話一般很少有污損,撿起來拿到舊書店去賣,或者直接在路邊擺攤出售,多少可以換點錢。

秋葉原的電器商店,會有很多紙板箱扔出來。掌握那邊地盤的流浪者,拉著板車挨家挨戶去收,也不用付錢給那些商戶。滿滿一車紙板箱,拉到收購站,可以換600-700日元。

很久以前,在電視上看過一個採訪,有一個流浪者會修理家用電器,就專門去撿或者回收人家丟棄的家電,修好以後,專門有越南的二道販子來回收,走私到東南亞去賣,倒也生意不錯。

大多數沒有一技之長,但是身體還壯實的,就去干一些當天可以結算工資的體力活。有的去建築工地,有的去給寫字樓打掃衛生,以前東京的高田馬場車站前,就是天天有很多人過來等著招短工的。還有一種是替別人去排隊佔位子,替職業黃牛去買一些人氣球賽、演唱會的票子等。一般這些工作,不需要交簡歷,甚至不需要會說日語。

相對來說,還在堅持打短工的,說明意志還沒有消磨殆盡,很多人還是想返回社會的。機靈一點的、勤快一點的,被工頭留下來,就不用天天去守候了。運氣好的,被安排到獨身寮里,就此可以擺脫流浪生活。

但是其中又有大部分人,於這種朝不謀夕,卻又可以肆意地放浪形骸的生活里,愈加墮落,消沉下去。

紀實作家 增田明利(Masuda Akitoshi)的「今日、ホームレスになった(今天,我變成了無家可歸者)」,採訪記錄了15個從公司白領變成流浪者的經歷和現在的心境。

まだスーツを著て働いていた時は、梅田や難波でそういう人たちを見て『ああはなりたくない』と思っていたけど、簡単になってしまった。何が悪かったんだろうと思いますよ。

當年自己穿著西裝在公司上班時,在梅田(Umeda)或者難波(Nanba)看到流浪者們,心裡暗暗發誓,「決不可以混成那副德行」。可是一不小心就掉進來了。到底是哪一步走錯了。

こういう暮らしをしていると恥という感覚が日に日に失せていくんだ。ゴミ箱に手を突っ込んで雑誌拾いするのだって何とも感じなくなった。

沉淪於這樣的生活,羞恥感一天一天消失。把手伸到垃圾箱里去撿那些雜誌,很快也不再會有任何感覺。

道を歩く時も、前は人に見られるのが嫌で下を向いて歩いていたけど、今は普通に歩いている。

剛開始還不想讓路上的人看到自己的臉,走路老是低著頭。現在,根本就不在乎了。

いつもはそこの歩道橋の下にダンボールを敷いて寢てるけど、すぐ橫をサラリーマンやOLの人が通っても何とも感じなくなった。地べたに座って弁當を食ったり酒を飲んでいるところを見られても平気になってしまった。

平常就在那邊天橋下鋪著硬紙板睡覺,上班族、白領妹子從身邊路過,根本沒啥感覺了。坐在地上吃個盒飯喝口酒,路人的各種側目也已經根本不在意了。

人間なんて、驚くほど簡単にみっともなくなっていくんだ。

一個人在落魄之後,竟會如此輕易地把體面與尊嚴置之不顧。

とにかくここにいれば楽でいい。義務も責任もない。一日中、気の合う仲間と酒を飲みながら麻雀をしたり將棋をさしたりして一日が過ぎていく。

總之在這裡還是很輕鬆的,即沒有義務也沒有責任。與合得來的小夥伴們喝喝酒,打打麻將下下棋,一天就這樣過去了。

ボランティアの人が色々面倒みてくれるから働かなくても生きていけるんだ。天國だ。ボランティア様々だよ。

義務志願者們對俺們也各種照顧,不出去幹活也不會餓死。簡直是天堂。總之義務志願者們太有愛了。

骨の髄まで野宿生活が染みついちまったんだ。もうあきらめてるよ。將來もあるなんて思っちゃいない。それでいいじゃねえか。人様に迷惑かけてるわけじゃないんだ。

這種流浪生活的滋味已經入骨入髓。早就生無可戀了。也不再幻想還會有什麼將來。就這樣了,反正也沒給別人添什麼麻煩。

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根據近兩年的調查統計,在野外生活的流浪者正逐年減少,目前僅東京都的野外生活者已不到一千人。然而,由於大城市裡老舊木結構的低價租賃屋的不斷減少,居無定所的低收入人群仍有增長的勢頭。出沒於網吧、膠囊旅館的「難民們「,恐怕也沒有心思去關心誰會當選新一任的東京都知事。4年以後的東京奧運會,會給他們帶來轉機嗎?

2016年6月23日


還記得當年在711打工時,當時我打的是每天最早的早班,6點就要打卡。雖然得起早做一堆關東煮包子和炸物,但由於我們店管理寬鬆,店長常年不在,做好自己的本分工作,倒也樂呵。

我們店處在一個很微妙的地段,周邊沒有任何超市與其他便利店,都是居民區,居民區中又多是老人。日本的老人大多是很有錢的,每日把我們的小店作為超市與食堂,天剛亮就晃悠著來店裡,買上一碗關東煮。倘若當日高興,還會買上一點燒酒,坐在公園的長椅上,與關東煮一起吃。

在每日來往的客人中,有一人是使我印象深刻的。他不像別的流浪漢一樣臉上臟黑,身上的衣服說不上乾淨,倒也不讓人心生厭惡。我在心中偷偷稱呼他為田中,這是我當時為數不多能好好念出來的日本名字。

田中不論晴雨,總會來店裡買一杯熱咖啡,恐怕是為了不與其他日本人相擠,他總是挑在很早的時間進店,因此每次在收銀與等咖啡的那幾分鐘,我們總是會有一些交流的。不熟時,他總是以問我是否已熟悉店裡的事來開頭,然後聊起天氣或與中國的事,我也因有人陪練我的聽力與口語,每次也不會感到煩心,而陪他閑聊至咖啡裝滿咖啡杯,在目送他走出店外,並說出ありがとうございます。

田中在流浪漢中也算是高級的,他每次買咖啡時,總是用一個布縫的小包里掏出一張千元鈔票,想得他是有什麼在做的小生意吧。說不定比我那可憐的時薪更高哩。我胡思亂想起來,心中倒還滿羨慕這種自由的零工,但田中定有自己的不為人知的門路吧,那也是我所不能及的。

得知田中的住所是在一次雨天,我慌忙跑到一個奇怪的大型建築物下躲雨,在那個橋型的柱子下,瞥見了一個由鐵板,紙箱,毛毯,各種奇妙的材料製成的小屋,大小如4個廁所單間,在這老舊的建築邊上存在著。在我思考著這是否違法時,田中正坐在不遠的地方,看得出來這正是他小小的家了。他彷彿認出我來似的,像我揮手打了招呼,這是我第一次沒穿那臟髒的制度和他談話吧。我們談起了天氣,泡沫經濟,他並沒提起自己是在泡沫經濟中破產,但能感受到他成這副模樣定是與其有關吧。他說流浪漢很少與正常日本人講話,也不接受政府的資助,但這並不是因為自尊,而是因為不想與他人添麻煩。這倒是十分的有日本人的風格,我心中想著。到最後他也沒提起他的小生意的秘密,我也不好意思去詢問,估摸著問了也不會有個清楚的答案吧。

看得出田中對現狀並無不滿,彷彿真正的自由之人了。我也並沒與他談太久,也匆匆離去了。

這是我個人在日本唯一有過交流的流浪漢,以後估計也不會在與太多的流浪漢有交集了。但每次在車站見到睡倒的流浪漢,總會想起擁有小屋的田中。


日本最忙碌的「流浪漢」,比你開心,比你成功,還比你胖。

無家可歸的小谷算了算,從開始在twitter上用「50日元(大約人民幣3元)出租自己」到現在,他被人租了1000次以上

有人雇他打掃家裡的衛生,乾乾粗活。或者因為工作脫不開身,拜託小谷在限量款商品發售日去商店排隊。還有人找他陪抑鬱症朋友聊天......

雖然更多時候,大家找他只是去參加公司的聚會,陪大家講講笑話、喝喝酒。

我的客戶, 佳佳!

這項請求是一次家庭訪問,給孩子當保姆!!

嗯!

像這樣

壽司教學,哈哈

——來自小谷真理的Facebook

四年前,小谷真理從大阪來到東京,想成為一名漫才演員。

由於收入微薄,付不起房租的他只能和前輩合租。然而沒人會喜歡他這樣邋遢的房客:把屋裡搞得一團糟,洗了頭不關淋浴,入住第一個月就忘交房租......

拖欠房租的第二天,小谷對自己的所做所為感到十分抱歉。他特意剃了光頭(這樣就不用洗頭了),誠心誠意地解釋說:「對不起!對不起!昨晚為了和一個女生約會,把錢花光了......

就是這次談話,永遠改變了小谷的人生。他聽到前輩用異常嚴肅的語氣回答說:「像你這樣的人,還是做個流浪漢比較好。」於是便開始了自己無家可歸的生活。

露宿街頭的頭一個月,小谷在人才市場上找工作的嘗試都以失敗告終,自己在twitter上記錄流浪生活的博文卻受到了越來越多的關注。

小谷腦洞大開,開始以50日元的價錢出售自己的時間。

因為委託價格實在太便宜了,小谷和顧客保持了一種默契:等完成任務後,顧客要提供小谷一頓填飽肚子的壽司,或者讓他在自家的沙發上過上一夜。

儘管無家可歸,小谷結識的朋友越來越多。有一個設計師幫他設計了專屬的紅色帽子和外套,別人送來的各式各樣的衣服也被他誇張的統統穿在身上。

小谷的生意也越來越火,如果你想「得到」他,首先得排隊預約。

小谷答顧客問:

Q: 基本上任何「工作」你都可以接受?

A:任何事情。

Q:沒有你一定拒絕的要求嗎?

A:嗯,通常是這樣,我更傾向於不會給別人帶來麻煩的要求。不想讓人不開心。所以只有好玩的工作我都會接受。

「因為我只值50日元,所以有時候難免會睡過頭啊......(尤其是在周末有女性客戶上門吐苦水的時候)」小谷又多解釋了一句。

有一次,小谷被租去當裸體模特。「一般模特不都是特別有肌肉的嗎,但是我哈哈哈哈......真是太尷尬了」。

還好畫家只是讓他脫光了躺在那,沒有姿勢上的要求。不過畫好的作品在咖啡店裡展出了一個月,多少還是讓人有點難為情。

過了好久,一個看過展覽的陌生人認出了小谷。在知道他無家可歸後,爽快地收留他過夜。

小谷說:「所以......如果你脫光了,總會有人讓你留下的」

「有一次,有人租我去台灣,就是去探望一下朋友,確保他們都沒事。」

「我還去過越南。雨季時我被叫去胡志明市。因為顧客想知道越南和日本,究竟哪裡更潮濕。

「對了,跟讓我去韓國的是同一個人,他希望我去查看一下首爾的天氣狀況。」

過了4年無家可歸的生活,小谷並沒有因為食物和金錢的問題發愁,反而過得超級開心。他不僅比之前胖了20公斤,還抓到一隻可愛的新娘。

「沒有房子,沒有工作,沒有錢,但我想要一個美好的婚禮!」2013年12月28日,小谷在網站上發起眾籌,有273人贊助了他和妻子的婚禮。

結婚現場更是變成一個溫暖的大Party。

最左邊的一對是小谷

結婚後,小谷繼續在日本各地過著居無定所的日子,妻子則住在大阪的父母家中生活。

於是除去日常的「50日元出租」項目,小谷的個人網站又新出了兩個項目:點擊「小谷的賽錢箱」可以捐贈100日元請小谷吃壽司。

「小谷家族」這個項目,原本是小谷厚著臉皮討要從東京到大阪看望妻子的通勤費用。此後因為更多朋友的加入,「小谷家族」成為會員活動的代號。

參加小谷家族的成員說,和小谷聚會喝酒是件非常有趣的事。他能讓人觸及到一種新鮮的價值觀:沒錢沒房不僅可以活得很幸福,還能帶給別人快樂。

如果不是真的認識小谷的話,聽上去是不是很有點瘋狂呢?

作為一個體面的流浪漢,小谷總在扮演近似搞笑藝人的角色。但無家可歸的獨特經歷使自己對與金錢和生活也有了一些嚴肅的思考。

以前自己住在鄉下的小社區,有人買了太多的豬肉或奶油會送給鄰居吃。這不是通過金錢買到了,而是出於彼此之間恩情。

「在Twitter上,你在北海道發出一條「早安」,住在東京的陌生人可能會留言說「哦,你起床了」。這是再常見不過的場景了。」

但是小谷說:「通過Twitter、SNS,我們進入了1億人(日本用戶)社區的時代。實際上,任何人都可以成為你的家人。

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圖片來自小谷真理,版權歸原作者所有

個人網站:http://yugamigachi.thebase.in/

Twitter:ホームレス小谷 Homeless? @kotanimakoto

Facebook:ホーム レス 小谷

參考資料:http://www.tofugu.com/interviews/homeless-rental-kotani/

http://logmi.jp/104553

編輯整理:Zed


i看了一些人的答案,小時候家在北方,冬季最低溫度能到零下二十多度,雖然大家小時候日子都不算富裕,但是流浪漢或者要飯的其實不多而且通常只是路過基本沒有停留下來的,GCD那個時候還是做了很多實事的,我認為在消滅赤貧方面起了ZF該起的作用,偶爾遇到流浪漢家裡人或給點零錢或給些吃的東西,我以前老擔心他們冬天在外面會被凍死然後老問爸爸媽媽該怎麼辦,家裡人就安慰我,他們最會找地方了,冬天暖氣管道或者鍋爐附近熱乎著呢,不會凍到的。後來我才知道,是看瀋陽的一個新聞,住在廢品搭出的地洞的老人家,讀過書,字寫的也很好,因為新聞報道為公眾所知也有老闆願意資助他,據記者說零下幾十度的氣溫,老人住的地洞也只有零下十幾度,像冰窖一樣,我覺得特別難過,家裡人原來只是在安慰我。

現在住在北京,路上很多乞討賣藝的,剛來時也是有零錢一定會給,用我朋友話說讀了7年書,眼看著學校天橋邊拖著鼻涕的小孩長大,不讀書長期乞討,感覺給錢反而是害了他們,所以現在伸手要錢的我們都不給,但是自力更生的都能幫則幫,比如北京西站賣水賣地圖的爺爺,路上賣氣球的老人家,金融街附近總是跟三條狗狗在一起收廢品的大爺,中國的社會總是憐貧惜弱,願意幫助別人的人很多,相反趁的日本社會單個人過於冷漠了。

關於國外的流浪漢,歐洲就不說了,那種高福利國家你不賭博不吸毒何至於墮落到需要吸毒的地步,美國我只是去旅遊沒有常住,但是飛機上被有神經官能症的小孩嚇到他一直尖叫,我則一直擔心他會襲擊我 ,在中國沒見過這種市面你們懂得,在美東小鎮晚上七點天剛黑在市中心超市買東西出來,路上沒人只有街角公園的流浪漢,其他人都開車在路上,看到我害怕他竟然還裝作要追我嚇我,真的快哭了,紐約也好多流浪漢我也懶的去管為什麼了,我在挪威半夜跑出去看午夜陽光喝醉酒的流浪漢晃晃蕩盪飄過來看我們嚇得不敢動自己在隔壁的小路拐走了,走了,了,所以我美國一生黑,歐洲一生推啊。

在歐洲讀書時愛旅遊又想省錢,穿的破破爛爛經常住機場,接近流浪漢的狀態了自己覺得,就是flop到底層的感覺,反正別人都比我有錢,才不擔心被偷被搶劫,說實話小偷都看不上我們,常被人同情的招待,呃,大家都同情弱者啊。當時覺得流浪漢也沒什麼是因為有希望吧,這只是過渡期,等以後工作了還是很有希望翻身的。

至少在前幾年,我都還覺得淪落到比底層還要底層純屬自己做不努力,可是隨著年齡的增長越發覺得命運其實就是這麼無常,其實你我都可能淪落成為他們的一員(此處插一句流浪的除了少數有精神障礙的,很少有女的,原因其實大家也知道就是無論如何女人還有最後一點可出賣的東西以換取短期收益或質量較差的長期飯票,這總是讓我想起catch me if you can男主的媽媽,漂亮優雅是女神一樣的人物丈夫事業失敗立刻找到同為上流階級的另一張飯票,有錢有階級地位就有愛),有時真不是努力就有回報。家裡人有在券商營業部工作的,可以看到其他人的賬戶,可以說真的是去年大跌不知讓多少人財富夢碎,而泛濫的使用槓桿逼的人一無所有,有去年掙一個億不走,今年以來已經賠了4輛法拉利的,有抵押房產炒股失敗,上門要帳說要房沒有要命一條的。雖然中國的保障體制不算很強,但是在經濟狀況整體算好於全球的現在,再怎麼也還不至於淪落街頭,容身之所糊口的工作總勉強找得到,但日本沒有住址就沒法有工作而失去住址後再回到原本正常體系有多難前面有人講過了。另外,中國再不濟還有家庭保障體系,日本親戚之間關係淡漠,但中國可不是,之前我舅舅家也是遭遇了特殊情況有幾年日子都過不下去,然後我媽媽還有我姨的幫助下,當然主要是我家幫忙終於順利渡過難關還清欠款不說還順利回到了富裕的生活狀態。

如果可以選擇,誰會願意淪落街頭遭人白眼,享受流浪生活的畢竟是極極少數,所以不要隨便去評判人家不夠努力,或者單純幼稚做生意被騙什麼的,誰都不知道明天會發生什麼,而我們貌似都還過著不錯的生活甚至有些人還挺富裕,但其實經不起一次失敗的投資,一場大病,甚至失業暫時找不到工作都會讓生活質量大降,大家都是這種高速發展商品經濟時代的小螺絲釘一個不小心脫落並不影響機器的整體運作,誰又比誰高級多少?


日劇相棒有一集令我印象深刻,案子是一個跳樓的人身上有刀傷,胃裡檢測出有很多種類食物,帶著這些疑問,天才主角右京san展開了調查。。

直接說結果,自殺,而為什麼自殺呢。

從這個男人無法就業,被女友甩,被兄弟說不要連累我們自己想辦法,到區役所明明有救助名額單因為名額有限被工作人員說你自己再努力看看一定有辦法好轉的,找不到工作無法交房租,沒錢交房租被趕出去,但沒有地址就無法找工作於是他繼續冒名填寫著舊地址,到有一天發現自己的房子搬進了新人,只能睡在黑企業的車庫裡到發現被趕出去,睡漫畫咖啡廳但是錢越來越少。走投無路的時候被壞人利用借出自己的名義當保證人,直到有一天黑名單滿滿已經無法做擔保。。於是吃了睡郊外最大的問題是吃飯,他便去各個超市試吃,直到有一次被人認出說你吃了這麼多次就不考慮買點嗎。

他真的崩潰了,就在結束生命的最後(好像因為有保險)所以只能偽裝成他殺,自己在樓頂砍了自己無數刀後跳樓。

當時知道這個結局我是驚嘆的,雖然只是電視劇,生活里有多少人渴望一個機會和救贖呢。也許哪一步走錯了下一個就是你我。

我並沒有問過家附近的流浪漢為什麼成了這樣,但卻看到了不同人的反應,見過買吃的給他的人,也見過打舉報電話讓負責的人把他的家當裝車收走的。只有一個想法,做人不要太絕,給別人留一條路也算積德。更何況人家並沒有打擾別人的生活。

最後只能說役所缺德的人太多,很多方面的救助都很苛刻。

ps很久不看那集(其實是因為太多我找不到),記憶有誤還望諒解


2014年初,我去日本金澤看望讀書的女友。和她去了大阪、東京,一直都沒看到流浪漢。

一天晚上,和她去一家小超市買零食,第一次見到了流浪漢。

看上去應該60多歲,和國內的流浪漢沒有不同,打綹的頭髮,灰白色上衣,黑色褲子,不記得有沒有鞋。身上散發著怪味。

他應該是喝醉了,嘴裡嘟囔著聽不懂的東西,在酒櫃面前徘徊。我擔心有危險,就拉著女友離他遠點。購物過程中,我一直注意他。其他顧客都繞著走,有的女士還捂著鼻子,但沒有工作人員出來趕他走。

他最後挑了一瓶白酒,媳婦告訴我那酒相當於國內的白牛二。他把酒放到收銀台,售貨員妹妹撇了撇嘴,但還是微微欠身,說道喔哈腰~

他嘿嘿笑了,彷彿對這句問候充滿陌生和期待。喔哈腰,喔哈腰,重複了好幾次。然後從腰帶里翻出了一些硬幣,放到了櫃檯上。接著拿著酒走了出去。像一個沒人注意到的幽靈。

我緊跟著走了出去,看到他在繁華的路燈中踉蹌走遠。他有家人嗎?有人記得他嗎?不知道。

我只知道他的死可能激不起任何漣漪,如同你我。


想到一本書,《無緣社會》,NHK編寫的。可以看看,有個案也有統計。


無論是被迫還是有意,只是一種生活方式的選擇罷了。上次去九州出差,路上休息見到一個流浪漢,在市政廳廣場上看報紙喝飲料,時不時喂喂草坪上的鴿子,還蠻自在。


你要問我流浪漢懶不懶,我當然說懶。和中國差不多。(有極個別特列,可我國特列也不少。故而說是一樣的。)

快餓死的時候會打點零工。

絕大多數時候,在做流浪漢該做的事:曬太陽、打秋風等等等等。

流浪漢之所以為流浪漢(特列除外)。除了懶惰,我這智商,真心不知道還有什麼其他原因。


新年的第一天,在從名古屋市役所去往愛知縣體育館的路上,意外遇見了流浪漢的聚集地。

那天街上很安靜,幾乎沒什麼人。陽光透過高高的樹葉,灑在身上,很有點歲月靜好的味道。正走著,發著呆,突然看見路邊許多人聚在一起。那是灌木叢隔開的一片空地,籃球場大小。四周搭了一圈藍色的棚子,也許是防水布之類,棚里有些雜物,看上去空蕩蕩的,有點冷。空地中間雜亂堆著些木柴,有沒有點燃卻是沒看清。

第一反應是不是在施工,走近才知道不是。那些人三三兩兩的坐著站著,端著式樣一致的盒飯在吃。遠遠看不清楚,可以確認有湯,有豆腐,還有別的一兩道菜吧。他們大都穿的很多,鼓鼓囊囊的看不出式樣。靠近馬路坐著的幾個,神態平靜,有穿球鞋的,也有一人穿的是cross的洞洞鞋,但沒有光著腳的。

因語言不通,沒敢停留就走遠了。不知道發盒飯是因為新年,還是一直都有。但緊挨著市政廳邊上有這麼一片地方,並不避諱他們的存在,算是文明的一處體現吧。


東京多雨。

一到有太陽的日子,無家可歸者就在公共廁所洗衣服。然後晾曬在馬路兩邊花園的圍欄上。好多好多好多襪子。。。

當然,不是大馬路。是介於大路,和私家住宅通路之間的小路。

電車站裡,常看到他們在垃圾桶里翻揀報紙和漫畫雜誌。然後以之為材料搭成一個窩,睡在其中,並閱讀之。。。

路人均視而不見,也無人乞討。更沒有爬上電車唱歌要飯的。插句,北京地鐵中「車上乞討」真的要治。

新宿站很大,有巨大的天橋下的空間。這裡的地面上,澆築了水桶大小的水泥圓台,以防止無家可歸者在此棲身。

廣州,用的圓錐形。密集到無法下足。而且,人家是裝飾用途來的。。。


大家如果有興趣的話可以看看木村拓哉的日劇《PRICELESS》,裡面也有一些情節講到了流浪漢。我還記得木村演的金田一在草坪上流浪睡覺喊冷的時候,旁邊的流浪漢大叔拿出自己的部分硬紙板給他當被子蓋,說是凍死了就會給別人添麻煩。


看到這個提問,我想到一部金敏的動畫電影:《東京教父》。主人公就是東京的流浪漢。題主有興趣也可以看看。

可以摺疊。


流浪漢還有一個好聽的名字:風來坊


我見過住在あいりんセンター的日本的流浪漢。想到什麼說什麼吧。他們有時候在早上會被組織起來去打掃他們住的一帶的衛生,我還見過他們擺一些小攤賣東西,不過大多數買家也是流浪漢。在他們住的那一帶有很多廢棄的傢具,他們會撿一些沙發,椅子之類的去用。あいりんセンター是一個比較大的建築有些流浪漢住裡面,有一些住外面,住外面的會用撿來的紙盒子把地鋪圍起來。下雨天,住在外面的流浪漢會用大的塑料袋子把床鋪抱住只露個頭。娛樂的話應該是喝酒吧,我經常見他們在一個叫「足立酒店」(貌似是這個名字)的一個有四五台酒類自動販賣機的地方喝酒聊天,也有人會去附近的玉出超市(也許是全日本最便宜的超市)買一些吃的,有些流浪漢喝醉了酒就在超市外面的地上躺著睡覺。因為他們的存在,大阪的西成區(あいりんセンター所在的那個區)被譽為全日本最危險的地方。很多關西的日本人根本不會從西成區走,說起來西成區也是直搖頭。這就是我知道的關於日本流浪漢的情況。

如果你有機會去大阪的話,坐環狀線,在新今宮下車。然後順著南海線那個高架鐵路橋往南走就能看到了。


推薦一個節目與同名書

無緣社會———NHK


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