日韓歷史課本如何描述二戰日本侵華史?與中國課本有何不同?
只看過日本的,韓國的沒看過,以下摘抄自使用量最廣(全國67.8%)的山川出版版高中歷史教科書2005版第一冊B:
以下不代表不發表任何個人看法,僅是轉述,具體怎樣各位自己判斷。括弧里的文字如無原文即是我為了語意完全而進行的補充,一切以原文為準。首先是釋義:- 日中戦爭:1937年から1945年までの間に、日本(大日本帝國)と中華民國(蔣介石政権)との間で行われた戦爭である。
- 日中戰爭:1937年到1945年之間,在日本(大日本帝國)與中華民國(蔣介石政權)之間發生的戰爭。
- 鴉片戰爭後半封建半殖民地化的中國與洋務運動的失敗
- 辛亥革命
以上兩節和我們的人教版高中歷史書除了對待義和團的態度以外基本是一模一樣的。
日本課本認為義和團是帶著邪教性質的暴民組織。- 第一次世界大戰(主要是出兵中國、三十一條和山東問題)
出兵問題在我們的課本上貌似從來沒提過?這裡講的出兵理由是:「
1918年1月にはドイツと戦闘中の英國が、ロシア極東の軍需品保護のため、日本に出兵要請し……
」 1918年1月為了保證英國在遠東地區對德作戰的軍需用品(供應與保管),邀請日本出兵(中國東北)。
同年11月にドイツ革命が起こり、ドイツ帝國は崩壊する。これにより第一次世界大戦は終結し、連合國は撤退をはじめる。
同年11月德國因其國內革命而導致德意志帝國崩潰,第一次世界大戰結束,聯合國軍開始撤退。
第一次世界大戦後の1919年(大正8年)1月のパリ講和會議とヴェルサイユ條約によって、日本は連合國側の一國として、山東省、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得、國際連盟の常任理事國に加盟した。
第一次世界大戰後的1919年1月(大正8年元月)日本作為聯合國軍一側的成員,獲得了(繼承德國)在山東省、帛琉群島和馬歇爾群島的統治權,並加盟成為國聯的常任理事國。
- 日美對立
主要講的是美國「黃禍論」和《山東半島歸還條約》、《九國條約》。
- 從北伐到南京國民政府(這一節基本其實在講南京事件與濟南事件)
列強は、南京事件の背後に共産黨とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ國外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安國軍総司令部に勧告した。4月6日には張作霖によりソ連大使館を目的とした各國公使館區域の捜索が行われ、ソ連人23人を含む74人が逮捕された。押収された極秘文書の中には、外國の干渉を招くための掠奪?慘殺の実行の指令、短時間に軍隊を派遣できる日本を各國から隔離すること、在留日本人への危害を控えること、排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるといったことが記載されていた。
4月9日、ソ連は中國に対し國交斷絶を伝えた。4月12日、南京の國民革命軍総指令?蔣介石は、上海に戒厳令を布告し、南京國民政府を組織(上海クーデター)、共産黨員および共産主義者とみなされた人々が処刑された。北伐は一時停滯、國民政府は蔣介石の南京國民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢國民政府」に分裂する。また、英國は、南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と斷交した。蔣介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2萬人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。日本と関東州の大連及び天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始。しかし北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退。これらの出兵は保護を目的としてい、英米も歓迎した。同年8月19日には、武漢政府が容共政策放棄を聲明し、南京國民政府に合流、結果、南京國民政府を主導する蔣介石の権力は強固なものとなった。9月 、田中義一首相と蔣介石が會談し北伐?対共産主義戦に対する支援と日本の満州國での権益を認める密約を結ぶ。10月には毛沢東が江西省に革命根拠地を創設。11月には広東省で中國共産黨南方局広州委員會が広東にソビエト政権を樹立。翌1928年(昭和3年)3月、形勢を立て直した蔣介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近、4月末に10萬人の北伐軍が市內に突入したため、日本軍も4月20日に再び出兵、6千人が山東省に展開した。
省內で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも當初は両軍ともに規律が保たれていた。しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、日本軍と銃撃戦が起こった。さらに蔣介石に「日本軍が中國人を虐殺している」との出自不明の情報が入り、5月3日、激怒した蔣介石が日本人12名を殺害させる済南事件が発生した。日本軍は5月8日(-5月20日 )から第三次山東出兵を行う。市內に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍は城外へ脫出し北伐を再開した為、5月11日には済南全域を佔領した。この事件により日本の世論は憤激、対中感情が悪化した。また同1928年內には、日本守備隊10數名が中國軍によって不法拘留される事件 などが數件起こった。翌1929年(昭和4年)2月 に李宗仁の亂が起こる。4月には山東全域から日本軍が撤退した。5月16日 には馮玉祥軍が挙兵を宣言する。7月、ソビエト連邦が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民國軍は撃破される(中ソ紛爭)。蔣介石は全國に徹底抗戦を通電する。10月にはソ連軍侵攻に合わせて中國共産黨が行動開始する。12月22日にハバロフスク議定書が結ばれてソビエト連邦の影響力が強まった。中華民國政府がソビエト連邦と交戦に力を注いでいるうちに中國共産黨は中國各地で盛んに活動を行った。中國兵による日本兵射殺事件も発生している。
重點摘錄(其實就是懶得翻) 1、列強向安國軍司令部主張南京事件是由共產黨和蘇聯策劃的。
2、北伐軍接近山東後,日本為了保證自己在山東的各種權益,遂派兵前往大連和天津維持治安;但由於北伐軍最終未能進入山東,日本軍隨即撤退。並聲明這次出兵純屬保護目的,英美也持贊成態度。 3、田中義一與蔣介石會談後,對滿洲國以及共產主義的態度達成共識,並簽訂密約。 4、北伐軍再次發兵山東,日本也再派六千人進入山東。因為北伐軍軍人掠奪日本人家,故與日本軍發生槍戰。是日蔣介石以「日本軍虐殺中國人」的理由,在1928年5月3日殺害日本人12名,是為濟南事件。 5、日本軍於8日開始第三次出兵山東,為保護城內2千餘日本人而進攻濟南城。 6、1929年4月日本軍從山東全境撤出。 7、7月蘇聯進攻滿洲被民國軍趕回老家,蔣介石通電全國徹底抗戰,中國共產黨粉墨登場。- 滿洲事變前後
前主要就兩條,退出國聯和撕毀華盛頓協定。
後的內容比較多,首先1933年5月には日華の間で塘沽停戦協定が結ばれ華北に非武裝地帯が設けられた。これにより満州事変は停戦し、中國國民黨政府は満州國への通車?通郵手続きを承認し、事実上満州國を黙認した。
33年5月《塘沽停戰協定》之後,國民政府默認滿洲國的存在。
1936年1月から1937年4月に北支処理要綱が作成され華北分離工作が行われた。この工作は國民黨政府から主権を切り離し第2の満洲國を作ることを目的としたものではなく、華北に親日満の地帯を作ること。華北の物資を確保しソ連侵略の際には日満支が協力して戦うための支援基地とすることを主眼とした政治的工作。
以確保物資供應的理由,策動華北五省自治,並強調不是要搞第二個滿洲國。
華北分治や中國內政を亂す政治工作は行わないことを明記するなど対中政策の転換が図られた。しかし、この政策転換には関東軍などの強い反対があり、6月に林內閣が倒れると、後継の近衛文麿內閣においては、川越大使が新政策を否定するような趣旨の発言を行ったとの新聞報道があり、中國側に大きな反響があった。
林內閣倒台之後近衛內閣對華北自治持不支持的態度,再加上關東軍方面的態度,華北一事基本就此作罷。
- 西安事變,國共合作
跟我們書上基本一樣,略過。
戰中:兩課,基本就是年表流水賬,跟我們一樣也不是考試重點。總的來說態度還是正確的,比上一節態度好的多得多,甚至比我們的都好以下列出各個小標題題目1937
不擴大方針決定到華北總攻擊開始上海租界空襲、南京、南昌、漢口大空襲上海上陸楊高事件國民政府向國聯提訴
第二次大空襲開始(廣東、山西、南昌、漢口)九國條約會議南京事件(南京大屠殺)與濟南佔領1938根本方針的改變、徐州會戰開始東亞新秩序聲明近衛三原則1939第二次世界大戰爆發1940
一零一號作戰(重慶大空襲)到百團大戰燼滅作戰(三光政策)和細菌戰作戰開始19411號作戰開始第一第二次長沙作戰19421943英美等國對中國法外治權的廢止常德戰役1944
1945接受波茨坦通告,日本投降溥儀退位,滿洲國覆滅岡村寧次向何應欽遞交投降書
戰後:
犧牲人數:日本軍:455700人中國國民革命軍:1328501人中國軍民死傷:12784974人戰後處理:
1972年由周恩來和田中角榮攜手實現兩國邦交正常化,同年9月29日發表《日中共同聲明》。
中華人民共和國一側在《共同聲明》中宣布放棄賠償,以「鄰里相助」和「反省過去」代之。同時,日本和台灣簽署的《日華平和條約》終了,但基於政府開發援助計劃,(對台灣的)援助保持不變,同時日本也向中華人民共和國提供政府開發援助計劃項目,到現在為止援助金每年約有10億日圓,總額超過3兆日圓。以上(雖然我估計沒人會認真看吧XD)韓語看不懂,只能說說日本的情況。
以下內容即使沒翻譯,真想看的人也能差不多看明白吧。先看日本文部科學省(=大致相當於中國教育部)的「高等學校學習指導要領解説」(高等學校=高中),也就是政府所規定的教學綱要
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/07/22/1282000_3.pdf(p.73)其中同時提到了日本對各國的傷害以及日本自身經受的戰禍。
再看知名教科書出版社「東京書籍」的教學大綱:
http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/downloadfr1/pdf/hbc92650.pdf(p.10 - 11)再補一個:
見證霓虹歷史教科書,一個國家之希望是從說真話開始的? 請注意多圖殺貓。最後,最權威的日語詞典之一,『大辭林』:
BTW(與題目無關)寫此答案時無意發現,日英詞典的「侵略」詞條下,第一個例句是日本,第二個例句是希特勒。我給出廣辭苑的詞條:
日本的話,我曾經拿到的版本的確有南京大屠殺,只是人數跟咱們的不一樣,說是「十數萬人」。
其他的對史實的描述其實差不多,包括國共合作共同抗日。
當然肯定也會有其他版本教科書存在。我沒有調查過不做評論。韓國的應該和我們差不多吧,不太了解,日本的貌似大部分都尊重事實(日本的學校用什麼書自己訂,所以一些極端的否認侵略的書也是有市場的,政府無權干涉,但是好像占的比例還不到0.1%)。不過他們的角度不一樣,他們會把日本也當成受害者,天皇受到蒙蔽,軍國主義綁架了國家,日本人民也受到了傷害,同時也傷害了亞洲人民。不過他們也會有一些把戰爭看成政治鬥爭的觀點,就和咱們歷史對待一戰一樣。中國參戰也不是正義的。客觀來說日本大部分人還是承認那段歷史的,一些政治人物不承認也是作秀的成分多。只不過是達不到中國人民想要的程度,日本政府也對中國進行了援助,雖然中國政府放棄了賠償。不過有時候政府需要掀動民族主義來達到民眾支持政府的目的,所以才在宣傳上要醜化日本,這也是一方面。
我們強調的「沒有承認侵略」是指官方的態度,日本政府一直以來認為自己已經多次在公開場合道過歉,想不明白中國人為什麼總是咬住不放,然而在我看來向德國那樣才算是有誠意,而不是摳字眼玩文字遊戲。
ps.有幾個答案給出了日本課本里用「侵略」的字眼形容中日戰爭,就認為日本政府承認了史實也是甜,人家對侵略的理解在程度上跟我們完全不是一個檔次,就算字典上有「希特勒」來解釋,在他們的認識里,侵略也就是派了不少人去中國打仗,可能過程做的有些過火罷了。正好手上有一本
我都不知道韓國歷史教科書該如何寫二戰史。在上海不知從哪冒出來的流亡政府天天喊口號抗日?
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