齋藤道三是在什麼情況下對織田信長做出:嗚呼!我兒只配為上總介(織田信長)拉馬為奴矣!的評價的?
他看到了信長的什麼優點
此事記錄於信長公記的首卷,背景是正德寺會面後,齋藤家臣豬子兵助向道三詢問他對織田信長的看法時,道三所回答的
謝邀~齋藤道三說出這段話的情節見於太田牛一《信長公記》首卷「正徳寺の會見 山城道三と信長御參會の事」一節。具體位置在此節的最後一段。以下原文:
信長公は御堂へするすると歩みだした。縁にのぼったところで春日丹後と堀田道空が「早くおいでなされ」と注意したが、そのまま知らぬ顔をして諸侍の前を通り抜け、縁の柱にもたれてすわった。しばらくして、屏風をどけて道三があらわれた。道三もまた知らぬ顔をして端座した。道空が脇から、山城殿にござる、と聲を出した。信長公はであるか、とのみ答え、敷居の內に入り、道三に挨拶を述べた。対面は湯漬けを食し、盃をかわし、無事終了した。道三は苦蟲をかみつぶしたような表情で別れの口上を述べ、二十町ばかり見送っていった。そのとき美濃衆の槍は短く、尾張衆の槍は長大であった。道三はその対比を見、面白くもない様子で帰途についた。途中、豬子兵助が道三に向かい、「どうみても、上総介はたわけでござりましたな」といった。道三はこれに対し、「無念である。わが子どもは、かならずそのたわけの門前に馬をつなぐことになろう」とのみ答えた。以後、道三の前で信長公をたわけと言う者はなくなった。
這是一段發生在道三和家臣間的對話。家臣豬子兵助詢問道三這次會面對於織田信長有什麼看法。道三於是回答:「嗚呼!我兒只配為上總介(織田信長)拉馬為奴矣!」不過這個其實是一段孤證啦。齋藤道三到底說沒說過這話就只有太田牛一知道了。太田牛一筆下,這時候的織田信長顯得挺有城府,和本節前文中「奔放」的形象截然不同,可能令道三比較吃驚(覺得此人難以捉摸?)。不過這段其實也透露出一個重要的細節。而且從語義邏輯上個人認為更是造成齋藤道三得出後來觀點的原因,那就是道三帶來的美濃士兵的槍比較短,對比之下,織田信長的尾張兵的槍又長又大。側面證明了尾張兵精銳這個事實。而道三如果真的說過這話,或許是因為被信長精銳的軍勢所震撼而有感而發。
俺覺得這是太田牛一給信長編的大義名份
看日本外史上面,信長與齋藤義龍之間的戰鬥,根本沒得到便宜,而且在織田信秀時代,信秀在道三那也被打的慘敗。是人都愛面子,怎麼也得想辦法找補回來點。推薦閱讀:
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